いいわけ(良いわけ=言い訳)――TOTOの Africa


 なにかゆる〜い音楽が聴きたくなった。たまには、紅茶など飲みながら、窓から外を見やり過ごす落ち着いた休日の午後などよいかもしれない。ほんとは、ほうじ茶の方が好きなんだけど。
 というわけで、TOTO のグレイテスト・ヒッツを買ってきた。


 TOTOを私は長いこと敬遠してきたのだった。
「わかったよ、巧いのは。だから、なに?」
「甘ったるいんだよ」
「なんかこう、迫ってくるものがねえっつうか、ただの器用貧乏の優等生じゃねえか」
「なにスマートにすかしてるんだよ」
「まあ、世間ではこういうぬるいのが売れるんだろうけどね」
……


 鼻持ちならないイヤミなやつ。私は若かったのだ。
 実を言うと、彼らの Africa という曲は、かなり前から気になっていて、内心「気持いいな、これ」とか思いつつも、それを自分でも認めたくないっつうか、たとえるならポール・マッカートニーを好きとは大っぴらに言いにくい感じに似ているっつうか、要するにすかしてるバカはオレだったのである。


 「趣味」というのは、めんどくさいものだ。それは、他人向けにも自分向けにも、自己像をこしらえるための不可欠なツールでもあるわけで、自己紹介のフォーマットに必ず「趣味」欄がある、そういうめんどうな時代にわれわれは生きているのですよ。「自分」ってものをもたなければならないという頭の痛い世の中に生きる私たちの、その「自分」ってものが何によって示されうるかと言えば、いかなる「文化」商品を嗜好する消費者であるかという点が実のところかなり大きな比重を占めていたりする。
 ミもフタもないことだ。


 自分が他と比べて少し「変わっている」、極端にいえば「特別だ」ということを「趣味」によって示さざるをえない不毛な生を生きている人は、そういうわけで、「メジャー」な商品に背を向けずにはいられないのである。そういう人間は――というのは私のことですが――「自分」の「趣味」について理論武装を必要としているのだ。
 「オレはわかってて聴いているんだぜ。ほら、こういう趣味のオレってどうよ?」ってなわけだ。ただ「好き」とは言えないというか。







 そういうわけで、TOTOの Africa が良いわけ=言い訳を述べたいと思う。


 「サビのコーラスがなんといっても素晴らしい」。そう言う人が世の多数派であろう。むろん、それはあながちまちがいではない、と言えなくはない。
 しかし、私が着目するのは、そこではない(君たちミーハーとは着眼点が違うのだ)。イントロで使われるキーボードによるA→A♭m→C♯mというコードのリフレインが、曲全体のなかで果たしている役割、そこがこの曲のカナメなのである。


 まず、重要なのは、このリフがイントロとAメロで用いられるものの、サビにおいては出てこないという点である。
 ロックには、いわゆる「リフ一発曲」というものがある。ギターやキーボードによる印象的なリフをサビのところでドカーンと打ち上げて、そのことが曲のヒットの大きな要因になっているようなものである。The Rolling Stones の Satisfaction(ギターによるリフ)、Van Halen の Jump(シンセによるリフ)などが代表的なところであろう。
 これらの曲においては、サビを一度聴いたら忘れられないものにする効果をリフが担っているのに対し、Africa のリフはサビにおける必要以上の盛り上がりを抑制し、曲に刹那感をそえる働きをしているように思えるのだ。

  • イントロでは1小節ごとの間隔をおいて、リフが4回くり返される。
  • Aメロでは、同じリフが3小節の間隔で登場。
  • サビでは、このリフはなし。


 つまりは、イントロ→Aメロ→サビと進むに従って、聴く側はリフの呪縛から解き放たれていくことになる。同じことは、1番→2番→3番の関係についても言える。

  • Aメロの長さは、1番→2番→3番(間奏)と順を追って、16小節→12小節→8小節と短くなっていく。
  • これにともなって、リフの登場回数は4回(1番)→3回(2番)→2回(3番)と減っていくわけだ。
  • このことはまた、曲後半に進むほど、Aメロよりもサビの比重が上がっていくことも意味する。
  • で、最後の3番のサビは1,2番のサビより長く、ここが曲のクライマックス。
  • そうして盛り上げたあとは、イントロに戻って、例のリフを頻繁に聴かせながらフェイド・アウト。


 そういうわけで、このキーボードのリフは、「はい、ここ盛り上がるところだよ」ではなく、「このあとに盛り上げるからしばらく待て」という印であると言ってもよいと思われる。そして、そのリスナーをじらす時間を1番→2番→3番と短くしていくことによって、終盤ほどサビが強調されていくという劇的な構成になっているわけだ。
 しかしですね、私が思いますに、リフの効果というのは、それだけではないのですよ。それはすなわち、反復がやむと、私たちはその反復されたものがまたやって来ることをつい期待して待ってしまう、そんな習性があるということ。
 だから、この Africa という曲においては、曲のクライマックスであるはずのサビの部分で、日常に引き戻されることを待ち望んでしまうという、なんとも煮え切らない態度をとらざるをえないのである。あるいは、夢から醒めることを予期しながら夢を見ているような状態、と言えばよいだろうか。
 その意味では、回を追ってリフの回数が減っていくという構成は、祝祭のなかに身を置いても劇的なことなどない日常に回帰したいという、習慣への禁断症状を高める効果をもっているのである。


 離陸しながら、しばし低空を旋回したのちに、また戻ってくる。夢は刹那的なもの。ぼくらは結局はどこにも行くことができない。また、引き戻されるのだ。


 というわけで、Africa はいい曲だと思う。以上。
 ああ、アホだ、ほんとに。