小説の言葉は死者の言葉──ディケンズ『二都物語』


 『二都物語』(ISBN:4102030034, ISBN:4102030042)読んだ。おもしろかった。けっこうメロドラマなんだけれど。


 以下、「ネタバレ」ありますよ。って一応ことわっておいた方がよいのだろうか。と思ったので念のためことわっておきます。「ネタバレ」ありますよおー。しかし、小説作品における「ネタ」ってなんだろう。








 舞台はフランス革命をはさんだパリとロンドン。瓜二つのダーニーとカートンは同じ女性を愛し、ダーニーが彼女と結婚する。ダーニーは革命政権下でいわれなき罪に問われ捕らえられるが、世捨て人のカートンがその身代わりとなりギロチンに上る。


 ディケンズの緩急のきいたストーリー・テリングの術のせいもあるが、私はどうもこの手の犠牲死の物語にはやられてしまう。
 物語が犠牲死にもたせる救済の甘美さは、たしかに危険なものではある。これが醜悪な政治に直結しかねないことは、たとえば「靖国」をみれば明らかだ。また、身代わりの者が死地におもむくときのヒロイックな陶酔感に、鼻持ちならない自己愛をみてとることもできる。
 しかし、この甘美さと縁を切って生きていく強さを持ち合わせるのは難しいし、持ち合わせたいとも思わない。そこに、物語が私にとって切実に必要な理由のひとつがあるように思う。
 たとえば、私は次のシーンで思わず泣けてしまった。
 誰にも気づかれず、また気遣われることもなく、みずから刑場に連行されようとするカートン。そこに、彼が身代わりとなろうとするダーニーに恩義を感じる貧しい少女──彼女も無実の罪に問われ刑場に送られるところ──が現われ、彼に声をかける。

 ……[少女の]忍従にも似たその目が、彼の顔を仰ぎ見た時、彼は、ふとその目の中に、突然の疑惑と驚きの色の浮ぶのを見た。飢えと仕事のためにやせ細ったその指を、彼はやにわにぐっと握り締めると、強く唇に押し当てた。
「あの方の身代わりになっていますの?」そっと女が耳もとでささやいた。
「そしてあの奥さんと子どものためにもね。シーッ! そうなんです」
「まあ、どなたか存じませんが、なんという勇気のある方、そのお手を取らせていただけます?」
「シーッ! いいですとも。可哀そうに、最後までね」


 笑いたい人は笑ってください。
 これまで無為の生を送ってきた彼の人知れぬ最後の覚悟が、他者に──もちろん小説の語り手と読者とを除いて──はじめて認知される場面がこれである。犠牲死のヒロイズムを甘美なものとするためには、他者の認知が欠かせない。先の場面は、この物語中で唯一、カートン自身の知るかたちで──つまり、語り手が読者に直接告知するものとは別に──もたらされる救済としての他者による認知である。
 私にとっては、ここがこの小説のなかで唯一喜ばしい、だからこそもっとも泣ける場面なのであった。


 もっとも、犠牲者カートンを救済しようとする場面はほかにもあった。しかし、そこにはなにかひっかかりをおぼえるのだった。
 以下は、ダーニーの死刑判決のあと、カートンが愛する人の娘に言葉をかけるところ。

 彼は身をかがめるようにして、花のようなルーシーの頬を彼の顔に押しあてた。そして優しく押しやると、こんどは気を失っている母親を見た。
「小父さまはね」と彼は言いかけて、ちょっと言葉を切った。──「帰る前に、ちょっとママにキスするけど、いい?」
 彼自身もあとになって思い出したのだが、そう言って身をかがめ、彼女の顔にそっと唇を触れたとき、彼はつい短い言葉をつぶやくように口にしたらしい。すぐそばにいたルーシーが、その後よくみんなに話したし、また彼女自身美しいお婆さんになったとき、いつも孫たちに話してきかせたというが、その時彼がつぶやいた言葉というのは、「あなたの愛するこの生命」というのであったという。


 これは、「尊き犠牲」に対して認知をもって救済を与えるという点で、さきの刑場に送られる直前の場面と同様の意味をもっているとも言えよう。つまりは、彼の英雄的行為が彼女の子孫に伝えられることで、彼の犠牲には意味が与えられる。
 だが、さきのシーンがいまだ生者であるカートンを救済するのに対し、このシーンでは死者としてのカートンを救済しようとするものになっている。語り継ぐことで「生者たる私たちは、あなたを忘れない」と。
 生者は物語ることで、死者のかつての生に意味を与えようとする。でも、それは可能なのだろうか。生者のいる場所と死者のいる場所の圧倒的な距離を埋める言葉はあるのだろうか。生者にとって、死者はそこにいないわけだから、死者を語る言葉は生者(「みんな」や「孫たち」)に向けられ、生者のあいだでのみで言葉はめぐる。カートンはそこにいない。
 そのことについてこそ、私にはカートンが不憫でならないのですよ。


 ここにいない死者に感謝し賛美する生者の言葉は、生者(たち)のための言葉にしかなれない。娘ルーシーが彼女の孫たちに語り継いだという言葉は、カートンをというよりも、その犠牲の跡に連綿と咲き続けるであろう「生命」を美しく彩る言葉になろう。
 作品中で作者ディケンズは、カートンの犠牲的行為について、ダーニーとその妻に一切語ることをさせていない。このことは、どの作中人物に対してよりもカートンに同情を寄せていたであろう作者にとって、必然的なことに思える。みずからの身代わりとなって死んだ者に対して何を語ることができるだろうか。


 生者の言葉は、それがどれだけ死者をいつくしむ気持ちから出たものであっても、死者に届けることができない。だから、作者は刑場におもむくカートンのもとに、同じ運命にある少女を差し向けざるをえなかったのではないかと、想像する。この時点でのカートンと少女はまだ死んでいないわけだけど、物語の読み手にとって彼らがじきに死者となることは明らかなのだから、彼らの言葉はなかば「死者の言葉」とみなせるように思う。妙な言い方になるけれど、彼らがまもなく死ぬことは物語の語りにおいて既定事実になっているのだから。
 そして、この死者としての語り手を仮構することにこそ、小説という物語技法の重要な意義のひとつがあるのではないだろうか。
 『二都物語』という長編は、死者カートン自身の語りによって閉じられる。それまで三人称で語ってきたこの小説のナレーターは、「もし彼[カートン]もまたその感想[処刑台に立った感想]をもらし、しかしそれが何かの意味において予言的であったとすれば、おそらく次のようなものであったろう」と最後に述べ、「僕は……」と語るカートンに語り手の立場を譲っている。その一部を引用する。

 彼らの胸の奥に、そしてまた彼らの子孫の胸に、今後何十年か、僕の記憶は聖所として斎かれてゆくことであろう。そして今日の年忌の日を、今は年老いたる彼女が、僕のために泣いてくれることであろう。そして彼女も夫ダーニーも、この世の旅路を終えて、地下の最後のベットに並んで横たわっている。そして僕は知っている。彼らほど互いに心の底から尊敬し合い、あがめ合った男女もなかろうが、それにもまして二人の魂の中に、神聖な、そして尊敬に満ちた思い出を残していたものは、きっとこの僕に相違ない。


 これを傲慢ととるむきもあるかもしれない。たしかに、みずからの命と引き替えに、それ以上のものを手に入れた人間の鼻持ちならない矜持を読みとることも可能かもしれない。
 しかし、私がそれ以上に強く感じるのは、「僕は……」「僕の……」という、ひとりぼっちの死者自身の語りによってしか、最終的には、意味づけ賛美できないような生を、私たち──カートンのみならず──は生きざるをえないのではないかということだ。死にゆく者は生者の声を聞くことができない。だから、死者自身が語るしかない、という悲しさ*1
 本稿最後に引用するような言葉は、「生者」、あるいは「今を生きている人」*2には語ることのかなわない言葉であるように思えてならない。そして、死者の言葉が仮構としてしかありえないのであれば、それを語ることにこそ小説の重要な可能性のひとつ──それは小説の「危うさ」でもあろうけれど──があるような気がする。

 今僕のしようとしている行動は、今まで僕のした何よりも、はるかに立派な行動であるはず。そしてやがて僕のかち得る憩いこそは、これまで僕の知るいかなる憩いよりも、はるかに美しいものであるはずだ。







*1:あう〜。うまく言葉にならないぜ。生を意味づけるには、「生」の外に出なければならないのだから、極端な話、生きている人間が自分の「生」を意味づけるにしても、やっぱりそこで語られる言葉は「死者の言葉」たらざるをえないんじゃないか。生きている意味を考えることは、今生きている「生」を否定する、もしくは停止させる身振りを含んでいるわけだし。うわあ、頭が変になりそうだ。

*2:そう言えば、『今を生きる』って映画がありましたね、むかし。『今を生きろ!』だっけ? しかし、そんなこと言われてもなあ、できません。