ドクター・マシリトの錯乱


 これからオレが発明するはずの機械を、あいつはオレより先に発明しようとしているにちがいない。そんな強迫観念にとりつかれて日がな一日則巻千兵衛博士の研究所を監視しているのは、『ペンギン村に陽は落ちて』(高橋源一郎ISBN:4087498395)におけるドクター・マシリトであった。

 男はアトムの耳元に唇を寄せ「ほんとうはわたしが創るはずだったのに、あいつがわたしからかっぱらって先に創ったふりをしているだけなのだ」と囁くと、あたりの様子をうかがいながら、繁みの中に消えていった。【59ページ】


 音楽を聴いたり、小説やエッセイを読んだりしてそのアイディアに感心すると、滑稽にも「あ、先にやられた」と思う自分がいたりする。自分で曲を書いたり小説を書いたりするわけではないのに、私はしばしばそう思う。これは異常なことなのだろうか。病んでいるのだろうか。
 子どもがママに「勉強しなさい」と言われて、「もー、今やるところだったのに〜」とか言うようなものだろうか。そう言うとき、子どもは、ただ言い訳をしているだけでは必ずしもなく、本気で「今やろうと思っていたのに」と思っていたりもする。ついさっきまで、そんな「意思」など、かけらほども意識していなかったにもかかわらず。
 「意思」というのは、遅れてくるものなのだ。


 他者の作品を「自分が作るかもしれなかった作品」として鑑賞する態度というのは、一見奇妙なものだけれど、読書というのは本質的にそういう体験であるとも言えなくはない。書物に書かれた言葉は、他者の言葉であって、自分にとっては異物にほかならない。まあ、自分が書く言葉だって、それを書きつけたとたんに自分にとって「異物」になってしまうのだが、話がややこしくなるのでそれは措く。ともかく「異物」としての他者の言葉を受け入れて、他者の思考に身を預けるということをしなければ、他人の言葉など読めたものではない。だから、その意味では、他人の作品を「自分が作る可能性のあった作品」と錯覚する感覚は、不自然とも言いきれない。
 しかしながら、小説の「登場人物」に感情移入するのではなく、「作家」と読み手である自分とを取り違えてしまうというところに、われながらちょっと困惑してしまう。世界の中に「登場人物」として自分の位置をみいだすよりも、創造者=神の目線から世界を見ようとすることの甘美さに、わが欲望はむかうのだ。


 ああ、神よ、私を罰しますか?


 てゆうか、こんなことを書くつもりではなかったのだ。書こうとしていたことから話がだいぶずれて、わけわからなくなった。
 ホントは、ネット上での「レビュー」の隘路について、もうちょい一般的な文脈に広げて考えたかったのだけど。
 まあ、いいや。もうアップアップなのでギヴ・アップのタイム・アップで、ええい、アップしちまえ。しりきれ。痔・エンド。イタタタタ。