いつの日か


 ブラウザの自分のブックマークをつらつら眺めていたら、「これ、おもしろそう、あとでゆっくり読もう」と思って放ったらかしにしていたページが、わんさかたまっているのに気づいた。
 「あとで」とか「いつか」という日は、「きっと来るもの」と根拠もなく信じていたけれど、どうやらもうやって来ないのかもしれない、ああ、やって来ることのないまま死んでいくのかなあ、とちょっと思った。


 頻繁に更新されるブログとか日記サイトは、毎日とか2日おきくらいに見にいっているのだけどね。ブログなどの場合は、しばらく見ないうちに読みきれない量の記事がアップされてしまうことがあり、それはもったいないと思うものだから、頻繁にチェックすることになる。
 しかし、更新の頻度がさほど密ではない、とくに日記形式ではないサイトの場合、「まあ、いつでも見られるだろう、時間のあるときにゆっくり見よう」と思い、ほんのさわりだけ読んだぐらいにして、ブックマークだけして安心、あとは放ったらかし、というパターンが多い。んで、わがブックマーク一覧にはそんなサイトが積もりに積もって山のようになっているというわけだ。うんむ、もったいないのお。


 そんなことを考えていたら、小学校の高学年だったか中学のときだったかに、ある教師が言っていた言葉を思い出した。たしか当時私はそれを聞いて、「フン」と鼻をならしたい気持ちがして、感心しなかったのだが、なぜか妙に印象に残っている。それはこんな言葉であった。


「君たちに残された時間を知っているか。かりに人生80年だとしよう。君たちがあと70年生きるとして、70年が何日なのか換算したまえ。それができたら今度は時間に換算し、したらば分に換算し、秒に換算したまえ。君たちに残された時間は何秒だ? 家に帰ったら計算してみるんだぞ。あしたからは君たちは時間をむだにすごすなんてもったいなくてできなくなるぞ」


 これを聞いた私は、胸のなかでその定年まぎわの教師に対し毒づいたものである。「余計なお世話だ! 70年もあったら俺らにはテメエの3倍は残ってんじゃねえのか」。
 で、20年ほど経った今になって、計算してみたよ、先生。まあ、今やもう私には70年もの時間は残されていないわけだが。


  70年=221472000秒


 あら、不思議。秒にすると案外短い気がするのね。さすが先生。こりゃ見事な子供だましだな。
 でも、私もだてに歳を重ねたわけじゃない。
 こういう数字にびびるのは、数字にリアリティが生じるせいではなくて、反対にリアリティをくもらされるからなのだね。実感のしにくさで言えば、「70年」よりも「221472000秒」という途方もない数字の方が実感しにくい。
 にもかかわらず、「あれ、案外短いじゃん」と錯覚するとすれば、それは数字ではなく、「単位」の方にトリックがある。つまり、自分の生が「秒」という、いつでも容易に経験できる*1「単位」に「分割されてしまう」「換算可能である」ということがらに、ガキのチキンハートはおののくのだろう。「長いように思っていた人生が、『秒』という、てのひらにおさまる微小な単位の集積でしかない」という認識にびびらせられるのだ。


 ふん、たちの悪いこけおどしだね、先生よ。齢30を過ぎた今にして、やはり私はそう思う。
 生を「日」に分割し、また「分」に刻み、「秒」へと細分化する。一方ではそんな営みをしながら私たちは生活せざるをえないわけではあるが、そんな時間観からは無根拠にも思えるような「あとで」とか「いつか」といった観念を大切に抱いて生きることも同時にできるのだ。たぶん。
 均等に刻まれた時間のかけらのひとつひとつは、あまりにもかよわくて、次にやってくるかけらの手段にしかなれない。給料のために「今日1日」をがまんしよう。明日になったら、また「1日」をがまんしよう。しかし、私たちはそうしながらも同時に、「いつか」をたぐろうとして生きているのだよ、先生。そんな分裂した時間意識を生きられなくなったとき──私たちが「いつか」を喪失したとき、たぶん後ろに流されていくことにあらがえなくなるんじゃないかな。

*1:「1年」の経験をあますことなく想起することは到底できそうにない気がするが、「1秒」は秒針の「カチッ」でいつでも経験できるようにみえる。