悲鳴ごっこ


 よく小さな子ども(特に女の子)が、2人して「キャーッ」って絶叫しあって遊んでいるのを見かけるけど、あれはなんなのだろうかと思う。
 昼間、近所に住んでいるとおぼしき女の子たちが──姿は見ていないのではっきり分からないが5、6歳だろうか──「ギャー」「キャーッ」とかいって悲鳴ごっこをやってた。あらんかぎりの力でわめいている。声がかれるよ、君たち。


 高校とかの野球部が校庭で「オーイ」などと叫びあっているのは、動物が自分たちの群れの力を誇示しているかのように聞える。ここはおれたちのテリトリーだぜ、みたいな。
 ガキのころ私は高校野球を観るのが好きだったので、そんな咆哮する群れを、おそれとあこがれの入り混じったような気持ちで外側からながめていた。結局、その群れに入ることはなかったけれど。


 野球部の「オーイ」が広いテリトリーに散らばった群れを求心的につなぎとめる綱であるように、子どもたちの悲鳴ごっこの「キャー」は、冒険にたずさえる命綱のようなものだろうか。なんて、想像してみる。空想してみる。妄想してみる。


 友達から離れて「キャー」と叫んでみる。「キャー」と叫び返す友達の声が聞こえる。もっと距離をとってまた叫ぶ。さっきより相手の声は遠くに聞こえる。おそるおそるもっと離れる。向こうの声はもっと小さくなる。また離れる。聞こえる悲鳴はもはや、かすかになり、鳥のさえずりや木の葉のすれる音、自動車の流れる音に囲まれているのに気づく。


 自分と不可分であった世界は反転し、風景として自分の外側に現われる。それまで気にもとめていなかった鳥や葉や車の音が、冷たい感触をして自分のまわりに「ある」のに気づく。
 叫ぶのをやめてひとり聞く音は、はじめて自転車に乗れるようになったときのような浮遊感を感じさせるようなものではなかったのかなあ。
 いざとなったら、握りしめた綱をまたたぐればよい。叫びさえすれば、向こうの私の知っている世界にまだ声が届くだろう。


 そう思って、疎外された風景の中を、ひとりぼっちでしばし漂う。美しい風景だなあ。命綱が手のなかにあると信じられるあいだは。