着地すべき「現実」の不在――スティーヴン・キング『ローズ・マダー』


 以下、キングの『ローズ・マダー』『キャリー』『グリーン・マイル』について、微妙に「ネタばれ」を含みますので、これら作品をこれから読む予定の方は遠慮された方がよいかもしれません。といっても、いずれも定型的な物語であったり、あるいは伏線が結末を示唆していたりするので、作品の3分の1も読み進めば、結末の見当はついてしまうと思うのですが。


 狂気をやどした夫の十数年にわたる暴力に耐えかねた妻が、家を出て逃走するが、優秀な警官でもある夫は執拗に追いかけてくるという話。


 筋立てはファンタジー風。

身寄りのない主人公が、DV夫から逃げ出す。
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DV被害者の支援組織やそこで出会った友人に助けられる過程で「怒り」の感情をはじめて知る。
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質屋に入って美しい目をした男性と出会う。質屋ではまた、不思議な絵を手に入れる。
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ロマンスの進行。
一方、不思議な絵のなかの世界に――文字通り――足を踏み入れ、魔女から力を授かる。
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授けられた力で、追ってくる夫に立ち向かい、「報いる」。


 この筋立て自体は、まるっきりファンタジーなのだが、私がキング的だと思うのは、エピローグの描き方なのだ。ファンタジーの王道からすれば、結末において主人公は冒険の過程で獲得した能力を失い、新たな日常へと回帰してめでたしめでたし、となるところであろう。女性が主人公であれば、王子様と結婚してお姫様は幸せに暮らしましたとさ、チャンチャン、というやつである。
 しかし、『ローズ・マダー』の場合、怪物たる夫を倒したあとも、授けられた力をしばしもてあますのである。絵の中の魔女が彼女に語った「私は報いる」という勇気の言葉が、冒険のあとも心の中でこだまし、彼女はその怒りの感情をもてあます。この物語では、主人公がその感情をもまた克服していこうとする過程が描かれるぶん、さほど後味は重くないのだが、それでもそのエピローグは妙にリアルだ。


 同じキングのデビュー作である『キャリー』(ISBN:4102193049)は、念力少女がみずからの能力によって「成長」に失敗する悲劇が描かれていた。主人公の初潮のシーン(宗教的に極端に厳格な母に育てられた彼女は、このとき自身の身に何が起こっているのか理解できない)で始まるその物語は、達成されぬビルドゥングス・ロマン(成長物語)として物語られている。念力(自分の意のままに世界を動かす力)は、自我意識の未分化(自分の思い通りにならない他者を認識できぬこと)を象徴しており、その力を手放せない(成長できない)ことが、彼女を破滅に追いやっていく。
 『グリーン・マイル』(ISBN:4102193154)も、やはりそれと同種の悲劇を含むと言ってよいと思われる。これは、罪人の身代わりとして死刑に処せられるイエス・キリストの神話をなぞった物語である。キリストになぞらえられたその死刑囚は、語り手である刑務所所長に癒しの術をほどこすのだが、語り手はその副作用をもてあまし、神を呪うことになる。


 スティーヴン・キングの小説のリアリティは、「こわさ」よりもその「悲劇性」にあるような気がする。そろそろ自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたが、私たちは――なんて一人称複数で語ってよいのかしら――フィクションから帰還して着地すべき「現実」なんて持たないよね、という気がする。いつだって、「現実」におさまりきらない過剰な仮構をもてあましている。
 そういう点で、キングの小説は未知なるもののもたらす「恐怖」というより、私たち(?)が実はよく知っている「痛み」を容赦なく突きつけてくるものだと思う。すくなくとも私は、「ホラー作家」と評されるこの人の小説が心底怖いと思ったことはないけれど、身につまされて「痛み」を感じることはしばしばである。