小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(ISBN:4061360140)

lever_building2005-07-02



 1973年の江戸川乱歩賞作品。作中でも一度だけ言及される連合赤軍浅間山荘事件は前年の72年である。ちなみに、栗本薫の『ぼくらの時代』(ISBN:4061361775、これも乱歩賞受賞)は、もうちょい後で78年。


 『アルキメデス〜』も『ぼくらの〜』も、大人に対する青年の不可解な反抗が、解き明かされるべきミステリー・神秘のひとつとして描かれている、というそんな推理小説。事件に仕掛けられたトリックとともに、彼らの不可解な「内面」が、ひとつの謎として刑事および読者の前に投げ出されるという趣向になっている。


 『アルキメデス〜』の方は、おもに刑事または高校の教師という大人の視点寄りに語り手の位置が据えられた三人称小説。一方の『ぼくらの時代』は大学生である「ぼく(ら)」を語り手として設定している一人称小説であるという点で異なるのだけれど、この「ぼく(ら)」は読者にむかって叙述トリックを仕掛けるのですね。つまり、「ぼく(ら)」の「内面」は謎として読者に放り出される。また、この栗本の作品における刑事も、『アルキメデス〜』における刑事同様、「ぼくら」若い世代の不可解な行動・思考の様式にしきりと首をひねるという役回りを与えられている。
 そういうわけで、両作品とも、いわば「今どきの若者」が古い世代にむかって挑発し、これに対峙する刑事と読者がそこで提示された謎を解きにかかる、という構図になっている。まあそう言ってよいのじゃないかと思う。


 で、このたび私が読み返してみたのは、小峰元の『アルキメデスは手を汚さない』の方なのだけれど、そこでミステリーのひとつとして提示され、また次第に明らかにされていく青年の「内面」のありよう自体は、たしかに驚くようなものではなかった。「大人」の目からみれば非常識でぶしつけな言動をとる青年たちが、実は古式ゆかしき義侠心に富んだ「内面」なり「動機」なりをもっていたんだよ、というお話。喩えるならば、コワモテのあんちゃんが、実は、捨てられた子犬をこっそり世話する優しい心をもっていましたとさ、安心安心、みたいな。
 しかし、そこで描かれる「内面」の内容そのものはともかくとして、先に示した構図は、中学か高校のころ以来ひさびさにこの小説を読み返してみて、なんか感慨深いものがあった。こんにちでは、こういう構図のもとにミステリーが成立するのが、なかなか難しくなっているんじゃないかな、という気がする。年寄りじみた言い方になってしまうけれど、「若者」「青年」──こんなカテゴリー自体、消滅の憂き目にあっているのかもしれないという気がしないでもない──の「内面」が推理小説(サイコ・サスペンスとかホラーとかじゃなくって)の謎解きの対象になった時代がかつてあったのだなあ、と思ってしまう。推理小説における謎というのは、読者をこわがらせる闇ではなく、探索・探究のロマンをかきたてる種類のものだと思う。で、そんなロマンの対象のひとつとして、「青年期の心」がかつてあったんじゃないか。
 もっとも、私がそう感じるのは、時代の変化のせいではなく、ただ私が歳をとったというだけのことかもしれない。


 先に述べたように、この推理小説の語り手の位置は、大人である刑事にいくぶん寄っていて、読者はその視点をとおして青年の「内面」の探索・推理へといざなわれるわけだけど、もちろんこれは青春小説であって、「近頃の若いモンは、まったくなっとらん。われわれの時代は……」みたいな説教調駄法螺話に溜飲を下げるたぐいの人に向けて語られているわけではない。そう、これは青春小説なのであって、青年、というかむしろ、これから青年へと移行しようとする少年向けに語られた物語なのだと言えると思う。ほら、君がこれから進みつつある青年期にはきっと輝かしい精神があるんだよ、というような。
 で、そんな私自身いだいたおぼえもある中学坊主ぐらいのときの青春への憧憬っていうのは、成長していく自己の内的な衝動やら葛藤やらから生じたというより、当時身の回りにあった物語の構図・語り口によって仕掛けられた側面がかなり大きかったのではなかったのか。ミステリー小説の語り口によって神秘化された精神。そうであったらミもフタもねえな、と苦笑。苦笑はするけど、まあいいってことよ、とも思う。


 んもう、思考がまとまらない。