「澱が溜まる」


 このところ日記の更新が途絶えがちなので、なんか書いておく。なにごとも継続するとは難しいものだ。


 最近、疲れぎみだ。昨日今日と好ましくない目覚め方をしている。心地よいまどろみの隅に何かひっかりをおぼえてガバッと体を起こすと、止めたおぼえがないのに目覚まし時計が止まっている。大変な時刻だ。容易でない。
 予備のタイマーとしてセットしたCDの音楽は、4曲目か5曲目を優雅に鳴らしてやがる。電車の時間、駅までかかる時間、家を出る準備に要する時間を逆算し、大慌てで着がえにとりかかる。
 さいわいなことに大事にはいたらなかったものの、あぶねえあぶねえ、と肝を冷やした。


 朝は緊張しているから特につらく感じないのだが、夜になるとどっと疲れがでる。膝から向こう、身体の末端部分に鈍い異物感があって、何か悪いものが溜まってよどんでいる気配がする。
 こういう感覚を私は「澱(おり)が溜まっている」と言っている。で、今日気づいたのだが、そういえば私はこの表現を他人に向かって使ったことがない。
「今日、オレ澱が溜まっちゃっててさあ」
「ああ、そうなの」
という会話を交わしたことはないのだ。
 ということは、上記のような「澱が溜まる」の用法が他人と共有されたものなのかどうなのか、分からないじゃんかよ。
 そう思いいたって、電子辞書の広辞苑、gooの国語辞典などを引いてみたら、身体の疲労感を示す意味など載っていないではないか。「澱」の意味として、沈殿物、よどみといった説明があるだけだ。


 で、Googleを使って「澱が溜まる」で検索してみた。そこで見つけた用法は、おおよそ次の2つに分類でできるものであった。

  • (ビールやワインに)澱が溜まる。
  • (心のなかに、あるいは胸の奥に)澱が溜まる。


 前者は字義どおり「沈殿物が溜まる」の意。後者は心理的なことがらを表現する比喩。検索に引っかかった70件弱のうちほとんどがこれらいずれかの意味で使われており、身体的な疲労感の比喩として「澱が溜まる」が用いられているのは1件だけだった。


 ふーむ。てっきりこれ慣用句だと思っていたのだけどね。公的な慣用句ではなく、私の孤独な私的慣用句だったわけだ。
 というか、俺って孤独なんだなあ、と思った。ずっと長い間、疲弊して帰宅した夜には「ああ今日は澱が溜まった」などとひとりつぶやいては、飯を食い、風呂に入るなどしていたわけだ。俺が澱だってことだね。