「美しい日本語」


 「美しい日本語」というのは意味不明な言葉だ、とつねづね思ってきた。
 たとえば、谷崎や三島や川端の小説を読んで「美しい日本語だ」などと言う。しかし、美しいのは「日本語」なのか。なんで「美しい文章」や「美しい描写」ではなく、「美しい日本語」と言わなければならないのか。「日本語」ってなんだ?
 一方、日本語に翻訳された小説にも、美しい文章と思うものはたくさんあるけれども、原著者と翻訳者の共同作品ともいえる翻訳小説が「美しい日本語」と評されることはない。翻訳だって日本語なのに。この差はなんなのだろう。


 おそらく、「日本語が美しい」とか「美しい日本語」とかと平気で口にできる人は、自分の感じている「美しさ」が外国語に翻訳することのできない何かであると、そう思っているのだろう。そうでないのなら、「美しい文章」と言えばことたりるのであって、「美しい日本語」などと言う必要はないのだから。とすれば、外国語から翻訳された文章が「美しい日本語」と評されないのもわかる。
 じゃあ、翻訳しえない美しさとはなにさ? と問えば、その答えは「日本人の心」とかそういうものになるのでしょうね。作者が「日本人」であることが、「美しい日本語」が書かれるために絶対的に必要な根拠であると、そうなるのでしょうね。そのほかに「日本語が美しい」という根拠はあるのでしょうかね。


 話は少し変わって、慣用句とあいさつと敬語について。
 日本語フェチの方々が、しばしば「日本語の乱れ」の指標にあげ、あるいは「美しい日本語」の特徴として例示するのが、この3つ、慣用句・あいさつ・敬語である。
 私は、慣用句もあいさつも敬語も有用だとは思うのですよ。まことに便利だと思う。だから、こんなもの排斥しちまえ、なんて言うつもりはないのですよ。
 しかし、なんだかなあ、と苦笑してしまうのが、あいさつや敬語の後ろに「ココロ」やら「マゴコロ」やらを見ちゃう、日本語フェチの方々の態度なのである。「ありがとう」や「お世話様です」のあいさつに美しい「日本人の心」を見ちゃったりなんかして、また敬語が正しく使われないことの背景に年長者への「敬意」の欠如をみちゃったりなんかして、まあどうでもいいんだけど、なんかもう、こそばゆい気分になっちゃいます。


 瑣末なこと言うようだけど、でもさあ、と思うのである。
 敬語の有用さというのは、これによって「敬意」なんかこれっぽちもないことを相手に悟られずにすむことにあるんじゃないのかなあ。だって、敬語がなかったら心にもない「敬意」や「好意」や「忠誠心」を示すのに、いちいち大変な苦労をするよ。
 紋切り型の時候のあいさつだって、なければ困るよね、という有用性ではかられる性質のものなんじゃないのかね。紋切り型の決まり文句であいさつ言葉を連ねる。こうしているあいだだけは、腹を割って話したくないイヤなヤツと呉越同舟しちゃったり同じ釜の飯を食わざるをえない折などにも、間がもつというものだ。でも、残念ながら、これによって面倒くさい人との関わり合いを徹底的に避けるには、まだまだ慣用的・時候のあいさつ的な語彙や定型表現は不足している。
 だから、国語学者をはじめとする日本語フェチの方々におかれましては、「美しい日本語」を発掘するなり発明するなりなさって、ますますその語彙と表現を紹介し、普及をはかっていただきたい所存なのでございます。ていうか、これって日本語、変?


A: Hello, Bob.
B: Hello, Nancy. How are you?
A: I'm fine, thank you. And you?
B: I'm fine, too. Thank you.


 中1の英語の教科書に載っていそうな、こんなような無難で空疎な会話がたった4行で終わるのでなく、10分、20分と続けられるようになれば、ずいぶんとこの世の中も生きやすくなるような気がいたします。
 というか、なかにはこういう会話を延々と続けられる人もいるのですね。かどをたてずにつかみどころのないキャラを演出するという。うらやましいなあ、と思います。そういうスキルを万人が手に入れられるように、マニュアル化キボンヌ。


 ああ疲れた。愚痴でした。すんません。