ときとして交換は難儀だ


 買い物のおり、自分がここに存在している感覚を一時的に喪失することがある。
 実用品や食料を買うときなどは、たいてい平気なのであるが、なければないで困りもしないものを買った直後に、ときどき頭のなかが「フワー」として、自分が何をしているのか、自分がどこにいるのか、とっさに思い出せなくなることがある。CDや本をまとめ買いしたときとか、楽器など実用品でない高価な買い物をしたときとか、ふと意識が遠のく。「あれ、何やってたんだっけ?」と。
 今までのところは、こういう感覚が長続きすることはなく、いつも一瞬で去り、ことなきを得ている。
 こんなふうに意識が身体からはがれるような感覚はどこから来るんだろうか。長年の疑問なのだけれど、いまだ答えを出せずにいる。この剥離感が襲ってくるのは、店員が金額を言い財布から金を取り出したとき、あるいはレジで商品を受け取ったときである。商品を手にしてすぐに我に返ることもあれば、店を出てしばらく我に返らないこともある。
 つねに買い物をすませたときにやってくる感覚であるから、「交換」ということと関係があるのではないか、という気がする。


 ところで、ぼったくりとも言えるような商売ってありますよね。行ったことないけど、おねえさんのいる店で、座ってちょっと酒飲んだらウン十万円請求されるとか。買ったことないけど、CDを聞くだけで頭がよくなるっていう教材が何十万円もするとか。
 あとでコワモテのお兄さんが出てきて脅しつけたりすると、それは恐喝であって取引きとは言えないけれど、喜んで何十万も出す人もいるわけだ。で、その場合それは、製造コストや原価からすれば考えられない法外な価格がついていたとしても、「等価交換」なんだそうだ。
 なぜかと言うに、交換においてモノの価値を決めるのは、その商品に費やされた労働の量や原材料、あるいは制作者の熟練度や商品の品質などではなく、交換が成立したという事実以外にないのだからだそうだ。価値は、あらかじめ(交換に先立って)モノに内在しているのではない。であるからして、モノを分解してパーツをひとつひとつあらためようが、また、それが作られる過程をさかのぼって仔細に調べようが、そこからモノの価値をはかることはできない。10万円で取り引きされた商品が10万円の価値をもつという根拠は、それが10万円で交換されたという事実のほかにないのだ、と。
 たしか、大学に入りたての頃に、そんなことをちょっと聞きかじって──私の理解は半可通な曲解を含んでいるかもしれないが──アヒャーと驚いた。「経済学(なのか?)ってものすごいこと考えているんだなあ」と。あんまりにびっくりしてそれっきり何も勉強しなくなったので、誰がどこでそんなことを言っているのかは、知らない。


 こんなような勉強して聞きかじった知識を、自分のことにひきつけて自分の問題として言葉にしていくのがなかなかできなくて、ああ学がねえんだよな、と悔しく思うのであるが、交換という日々の営みが、ある面においてはとてつもない「事件」でもあるのだろうなという実感はある。
 幼少の時分、キン消しキン肉マン消しゴム)とか仮面ライダー・カードだとか、つまらないものを友達と交換したりする遊びがあったけれど、思えばああいうのも私は苦手であった。自分のバッファローマンキン消しを、他人のアシュラマンキン消しと交換するとき、一時的に、バッファローマンバッファローマンでなくなり、アシュラマンアシュラマンではなくなる。それらは、いったん「バッファローマン」「アシュラマン」という固有性*1を剥奪されて、「キン消し」という抽象物*2になる。というか、抽象物として解釈しないと、「交換」にはふみきれないわけだ。


 私の持っているサンシャイン。相手はこれと自分の持っているチエノワマンとウルフマンを交換したいと持ちかけてくる。で、そのためには、私はまず相手のチエノワマン「1匹」とウルフマン「1匹」、「1匹+1匹=2匹」という足し算をせねばならない。うおおお、なんで足し算できるのだ? だって、チエノワマンとウルフマンは別物じゃねえか! たとえば、馬1頭と野球のバット1本と足し算して「1+1=2頭」とか「1+1=2本」とか勘定するか?
 のみならず、相手の「チエノワマンの価値」と「ウルフマンの価値」の和と、自分の「サンシャインの価値」とを比較考量せねばならない。しかし、どうやって?
 で、交換なんかしたくないのだが、相手が強く言うものだから、
「もうひとつお前のテリーマンもつけろよ。そしたら、サンシャインをやる」
などと条件をつけて、交換という申し出自体は受け入れてしまう。
 めでたく交換が成立して手にした3体を見て悩む。うむむ、「チエノワマン+ウルフマン+テリーマン=サンシャイン」?


 それは、堪えられないというほどではないにせよ、回顧してみるに、私の幼い頭を混乱させずにはおかなかったのだろうと思う。
 交換という事件をはさんで、サンシャインやテリーマンは、モノ→価値→モノと、めまぐるしく変化する。「変化する」と言っても、変化の瞬間をわが目でとらえることはできない。あとから振り返って、そんな「変化」があったのだろうと考えることができるだけだ。交換したという事実だけがあとに残る。
 交換前に「サンシャイン」と「私」はたしかに結びついていて、その結びつきは交換によって解体され、いつの間にか「私」は「テリーマン」を手にしているが、そのときすでに「私」は疎外されている。


 何言ってるのか、自分でも分からなくなったので、このへんでやめる。

*1:といったってマスプロダクツであるわけだが

*2:キン消し」というのは、ガキどもにとって「流通」を宿命づけられた貨幣のようなものであったのだと思う。