「あなたは自分が好きですか?」


 少しく古い記事なのだが、変なものをみつけたのでリンク。無断でリンク。


 「自分嫌い」な子供たち 中学生の半数以上(Sankei Web)


 おじさんのための癒し系メディアたる産経さんだけあって「最近の子どもは自虐的だ」と言いたいんだろうか。
 元の調査(「麻布台学校教育研究所」なる民間の研究団体による調査)も怪しいし、それを紹介する記事もちゃんちゃらおかしい。

 調査は今年一月から二月にかけて都内や神奈川県、神戸市の小学五年生四百人と中学二年生六百五十四人の合計千五十四人に実施。思春期の子供の「心の中」に迫った調査は珍しい。


 たかだか1000人程度にアンケートをばらまいて回収したくらいで、「心の中」に迫れるというのだから、たいしたものだ。

 「自分が好きではない」と回答したのは小学生が男子23%、女子31%。中学生は男子50%、女子63%で、中学生の半数以上が自己肯定感を持てないでいることがうかがえた。


 回答をそのまんま真に受けている!


 「自分が好きか」と問われて、てらいや照れもなく「自分が好きだ」と答える中学生がそうそういるものかね。中学生ぐらいの年ごろの子たちが、教師から配られたアンケート用紙に、「心の中」を正直に吐露しなければならない、なんて考えるものですかねえ。ろくに分析の手を加えていない回答のたんなる集計値が、「自己肯定感」などという「心の中」に直結するなんて、この人たちは本気で考えているのだろうか。
 しかも、「自分が好きではない」という回答の選択肢の立て方も変だ。これと対立する他の選択肢の文が記事に載っていない*1ので詳細は知らぬが、かりに次の2つの選択肢があったとして、これはニュートラルな質問ですかね? 中学生からみて、はたして「本心」を虚心坦懐に答えられるものだろうか。

  1. 「自分が好きだ」
  2. 「自分が好きではない」


 「自己肯定感」なるものを持っているか否かという「心の中」のありようは別にして、1より2にマルをつける方が、被調査者の心理的な抵抗感は小さいのではないだろうか。「ナルシシズム」なんて、きょうび中学生でも知っている言葉であって、彼らはそれが否定的なニュアンスを帯びていることも知っている。それを知っていながら、あえて「自分が好きだ」と答えるには、「好きでない」と答えるよりも自意識の障壁は高くなると思われる。
 また、すこしませた中学生だったら、選択肢にこめられた大人の価値意識や調査者の意図に容易に気づくだろうことも、考慮に入れなければならない。1、2の選択肢を子どもがニュートラルな質問として受け取るだろうと調査者が考えていたのだとしたら、あまりにも脳天気である。ちょっと頭を働かせる子どもには、調査者が以下の前提で調査を行なっていることは、明らかなのだから。

  • 「自分が好きだ」→望ましい状態。正常な子ども。環境に恵まれた子ども。
  • 「自分が好きではない」→問題行動の兆候。異常な子ども。愛に飢えたかわいそうな子ども。


 こういう意図をいくぶんでも嗅ぎ取った子どもが、質問に真正直に答えるかいな。もっとも、これを察知して優等生的に「自分が好きだ」と答える場合もあれば、反対に、あえて「自分が好きではない」と答える場合も考えられる。しかし、いずれにしても、こんな意図のミエミエな調査をやっていれば、調査者が知りたいありのままの「心の中」(そんなものがあるとしての話だが)とは別のところにある要因(打算とか自意識とか)が調査結果に反映されてしまうということ。


 あと、こんなこと数量的調査の方法を専門的に学んだことのない私ですら知っていることだけど、質問は五択にするのが調査の基本中の基本らしいっすよ。
 先に引用した記事の文言「『自分が好きではない』と回答したのは……」というところから推し量るに、どうやらこの項目、二択ないし三択で調査されているようだ。だって、もしも四択ないし五択だったら、先の記事の文言は「『どちらかと言えば自分が好きではない』『自分が好きではない』と回答したのは、合わせて……」といったものになるはずだもの。
 選択肢を二択にするデメリットは、被調査者が回答の際に複雑に余計なことを考えてしまうので、調査者の意図以外の要因が回答に反映されてしまうということ。二者択一の選択肢は、回答者の心的負担を大きくし、回答の決定までの過程を複雑にするからダメ。
 選択肢を三択にするのも、まずい。たとえば、「自分が好きだ/どちらとも言えない/自分が好きではない」という三択で質問した場合、回答者の多くはまんなかの「どちらとも言えない」を選択してしまう。これでは、サンプル全体の傾向をはかることはできない。
 そういうわけで、「自分が好きだ/どちらかと言えば好きだ/どちらとも言えない/どちらかと言えば好きではない/好きではない」というように五択にするのですね。こうすることで、回答者の心理的負担を軽減し、なるべく考えず「心の中」を「ありのまま」に回答してもらう。そして、「どちらかと言えば……」という答えやすい選択肢を用意することで、まんなかの「どちらとも言えない」という回答を減らす、と。
 調査が杜撰なのか、あるいは調査はちゃんとやったのだけど紹介する記事がデタラメなのか、いずれかもしくは両方ってとこだろう。いずれにしたって、この記事は、下手なプロパガンダの域を出ないよ。


 ちなみに、調査にもよるのかもしれませんが、通常、「好きだ」という回答と「どちらかと言えば好きだ」という回答は、統計処理において同義に扱われるらしいよ。つまり、「どちらかと言えば○○」という選択肢は、「好き」か「好きではない」のどちらかに回答者を散らすための、たんなる調査技法上の方便であって、調査者は別に「好き」の度合をはかろうとしているのではない、と。


 それにしても、私には「ざまあみろ」と思えるのですが、社会調査などというのは容易に成立しにくくなっているのでしょうね。私なんかは中途半端にしか調査技法を知らないわけだけれど、それでも被調査者が調査技法をメタ化する意識を持ち始めたとたん、調査は難しくなる。
 このパラドックスは、こんな話を思い出させる。ある人類学者が無文字社会に調査に入ったら、現地の人たちが彼をまねて、ものを書くという習慣を持ち始めたとさ(レヴィ=ストロースでしたっけ?)。
 先に引用した調査にしたって、調査者は、かしこい自分たち大人がイノセントな子どもたちの「心」を理解してやるつもりでいるのかも知らんが、実際イノセントなのはどっちなんだろうね。その調査を真に受けて、エラソーに子どもたちの現状を憂えている記者氏にしたって、「裸の王様」じゃないのかなあ。


 産経さんが強調したいのはこういうことらしい。

山口県光市の高校爆発事件や東京都板橋区の社員寮管理人夫婦殺害事件など、各地で児童生徒による殺傷事件が相次ぎ、そのたびに「命の大切さ」や「心の教育」が繰り返し叫ばれるが、同研究所では調査結果から、子供たちが「自分が好き」という自己肯定感をはぐくむ大切さを訴えている。


 産経さんの日頃の主張からすると、この文章は、「心の教育」→「愛国心の教育」、「自己肯定感をはぐくむ」→「自虐史観を脱する」と読みかえてもよさそうだけど。
 それはともかく、「自分が好き」と答えないようなガキは、不健全で、犯罪者予備軍なんだという彼らの認識はよくわかった。余計なお節介というものである。この「自己肯定感」どうのこうのっていう産経さんの論説にしても、他人の「自己欺瞞」やら「偽善」やらを得意げにあげつらう今流行りの言説にしても、どうも気に入らない。「自己意識」なんてものは他人からつべこべ言われる筋合いのもんじゃねえっつうの、と思う。

*1:この時点で、社会調査の結果を紹介する記事として、読者を馬鹿にしているとしか言いようがない。馬鹿しか読まない新聞ということなのか?