なんで音楽は気持ちええのかねえ


 Sonic Youth 気持ちええなあ。たまった雑務をかたづけねばならんのだが、まあそのうちでいいやね、日曜なんだし、まだ日も高いしな。とビールをあおり聴いているんだけど、なんで快なのかね。不思議だわ。


 私は音楽についてレビューとか批評とかをやらかす気はないのですわ。評価なんぞできませぬのよ。
 うちの近くのね、老婆だと思うんですがね、お会いしたことはないのですがその老婆と思われる人がね、よく歌を歌っているのですよ。窓を開けていると聞こえてくるのですわ。ほら、今も聞こえる。今は昼間ですけどね、深夜の2時3時という時刻に歌っていることが多いようです。独居のお年寄りなのかしらね。
 歌といっても、言葉は聞き取れないし、はっきりしたメロディがあるでもない。かすかに節のようなゆれがついたうめき声のようなものですわ。それが、ただのうめき声でなく、歌だと申しましたのは、割れるような声なんですが、その声が「あーーーーー」って伸びるからなのです。
 よかですか。「あーーーーー」でも「いーーーーー」でも「うぉーーーーー」でもいいんですが、しばらく伸ばしたら「歌」になるんです。と思います。
 あきらめて伸ばすのやめたら「雄叫び」になります。オオカミさんが月に向かって発するやつですね。もう少し短いとそれは「うめき声」です。明確な意図をもって短く区切ると、それは「言葉」になります。ほんとかあ?
 「言葉」は明確な意思をもって切られた音ですね。反対に、明確な意思をもって伸ばした音が「歌」なんです。「雄叫び」や「うめき声」は意思の断念です。その断念するのをまた断念して「うぁーーーーー」って伸ばしてみたのが「歌」というわけです。断念の断念、それが「歌」ってことです。
 自分でも何言っているのかわかりませんが、酔っぱらってるんです。すんません。


 そうそう。老婆の歌の話でした。「こんちくしょう!」と言葉を切るのでもなく、「うぉー」とうめくのでもなく、「あーーーーー」としばらく発声しているんで、あれは歌なんです。音楽なんです。そこにあるのは、音を響かせる意思ですね。息継ぎをはさんで、正確に計ったわけじゃないですが、15分か20分か、発声を続けるわけですよ。
 なんのために?
 言葉にしろ、オオカミさんの雄叫びにしろ、意思伝達という目的があると思うんですよ。つまり、コミュニケーションに発声が従属していると。しかし、歌は従属しない。もう1回言おっと。歌は従属しない。No Submission! ってやつですわ。
 ともかく、お婆さんは、音を響かせるために音を響かせ、声を伸ばすために声を伸ばす、それ音楽、それ歌。そういうことなんじゃないですか。よくわからねえけど。


 ずっと遠回りしてやっと話が戻ってきました。
 音楽に関して批評なんてできませぬのよ、という話でした。音楽、言いかえればミュージック、これ、すんごく裾野の広いものだと思うわけです。
 また、話がとびますが、自分のことをふり返ってみるに、音を快として受け取る原点は裏日本の地方都市で育った少年時代にありまして、原っぱで野球なんかするわけですよ、日が暮れるまで。だんだんあたりが薄暗くなってくると、疲れもあるのでしょうが、聴覚が研ぎすまされてくるのですね。遠くから「カーンカーン」と金属のぶつかる音が、ゆっくりとした一定の間隔で聞こえてきます。
 はっきりとしたことは言えないのですが、音のする方にはたしか石油の採掘場があったので――今はどうだか知りませんが80年代の当時はあったのですよ。クレーンのアームみたいのが上下してね――そこから聞こえる音だったのではなかったか、と思います。
 その夕暮れどきに聞く「カーンカーン」がさびしくてね。その機械が発する金属音に耳をすますのが、心地よかったのですわ。


 お婆さんが、うめき声で発声をやめるのでなく、しばし声をのばす。彼女は自身の声に耳をすましているのですよ。ガキの頃の私が、はてしなく続くかのような機械の音に耳をすましたように。いつかそれははてるのだろうけれど。永遠性、そして連続、反復。
 私たちは、商品としてパッケージされた音楽を日々聴くわけだけれど、その基本は、お婆さんの「あーーーーー」や夕暮れ時の「カーンカーン」と変わらないんじゃないかと思う。
 YARD BIRDS や AEROSMITHSTRAY CATS などが演奏する Train Kept A Rollin' という古い名曲があります。汽車は走り続けるよ。汽笛の音を模したエレキギターの音で始まるこの曲は、汽車が線路をゴトンゴトン走るようなリズムの連続性・反復感が美しいのですなあ。この曲は、音楽というものの快の由来を、汽車というテーマに具象化することで、わかりやすく見せてくれているんじゃないかと思えてならんのです。永遠にむかって連続し反復する意思、それが音楽。なのかなあ?
 でも、商品化するためにはパッケージ化しなければならないわけですね。「曲」や「アルバム」という単位に。あるいは、「歌手」や「アーティスト」や「バンド」という単位に。
 それが「本来」の音楽からの「逸脱」だとか「堕落」だとか言いたいわけじゃないですよ。ほとんどあらゆるものがパッケージ化されて私どものところに届く。そうして「手に入れる」ものがおびただしく存在する世界に生きているということは、幸福なことなんだろう。たぶん。そうでなくても、帰ることのできる「本来」の世界なんてそもそもないのだから。


 で、また話をもどして、「評価」というのは、音楽そのものではなくパッケージに対してなされるものだと思うんですわ。
 もちろん、「評価」とか「批評」とかの行為を貶めたり嘲ったりするつもりはまったくないんです。それには、立派な存在意義があるだろうと思うですよ。批評という営み自体が表現として成立し、また独立した作品たりうるのはじゅうぶん理解しているつもり。
 しかし、はっきりさせておきたいのは、その営みは、批評される対象との関係においてみるならば、本質的に商品の「流通」にかかわるんだろうということ。
 そして、ここで駄文をつらねている私は、自分の好きな音楽が商品としてどう評価され流通するかということには、あまり興味がないし、利害関心が生じる立場でもない。そういうわけで、「レビュー」「批評」というものとは、べつのものを書きたいなあ、でもうまくいかねえなあ、と思っているところです。
 その書きたいなあ、と思うところのものは、音楽の愉楽がどこからくるのか、という由来の解析であるのかなあという気がする。自分でもはっきりしないんだけれど、半年くらいこの日記を続けて、たぶんそういうことなんじゃないか、という気がしておるのです。
 ほんで、この長文の最初の最初、ソニック・ユースについてである。この人たちの音楽がなにゆえに心地よいのか、という解析に入るための序文というか、言い訳だったのですね、今までのは。「あーーーーー」「カーンカーン」は伏線のつもりでした。
 こんな長くなるとは思わなんだ。そういうわけで、ソニックについてはきっと今度書きます。今日はもうダウン。


 ほんと、こんな着地に失敗して結論のない文章ですみません。