相づちを打ちながらしゃべる


 癖でしゃべりながら自分で相づち打つ人っていますよね、うん。いるよねえ、うん。僕ね、うん、いまそういう状態なのね。疲れてるときなんかね、気づくと、自分でうんうん相づち打ってるんですよ。
 近頃、忙しくてね。朝起きるのがつらくて、でも、夜になるとなぜか元気になってですね。うん、こうして日記を更新しちゃうのですわ、ね。連続更新記録更新中ですよ。今日で8日連続ですよ。今までの記録が3日間だったのかな。うん、そう3日間。大幅更新です。うんこんな日記ですがね、まあ。
 更新すること自体が目的化してしまっている状況で、なんか変な感じですが、うん、継続は力なりって言いますよね、うん。もう1回言うと、継続は、うん(ry。


 すんません。馬鹿ふざけはもうやめます。
 なんかこう日記をつけつつ時間に追われる生活が続くと、思考の断片が無秩序にたまっていくのが自覚され、おもしろい。日記をつけていなければ、そうした断片のことなんかたちまち忘れてしまうのだが、記録するという意識があると、断片が気になって、放っておけばそれが消えていくと思うから、疲れているのに、さあ日記を書こうと更新意欲が昂進されて、ってもう完全に駄洒落モードだよ。


 で、今日書きつけようと思った断片は、古い話だけど、外務大臣だったときの田中真紀子さんの「一所懸命やってるんですけどね」といって泣いたことに関して。
 よく「人間には2通りのタイプがあって、それは○○な人と△△な人である」式の言い方がありますが、それにならえば、あのときの真紀子さんに「冷笑する人」と「同情する人」の2通りの人間があるのでないかと思った。もちろん、そこには彼女の仕事ぶりに対する評価とか、彼女本人に対する好き嫌いの感情とかがからんでくるのだろうけど、そういうのは度外視して考えて、他人の挫折を遠くからながめたときに、どんなふうに捉えるかということ。
 前者のタイプは、「仕事」なんだから実力と結果が問われるのであって、挫折して泣くなど「甘い」のであると考えるのかもしれない。そりゃ自分の職場でそういう理屈を持ち出すのなら分かるのだけど、遠くの他人をながめて「プロなんだから泣いてんじゃねえよ」と冷笑するのは、屈折してるよなあと思った。勝者の目線でものをながめている感じが、はっきり言ってしまえば、とてもいやな感じ。
 さきほど、「2通りある」という言い方をしたけれど、そんなタイプ分けできるほど人間は単純ではないのであって、ひとりの人間のなかで、おかれた状況に応じて目線が切り替わるということもあるだろう。そして、現実的に「勝者」とは言えない人間であっても、心理的には「勝者」の目線でものを見ていたりもする。
 で、僕は現実的にとうてい「勝者」ではないわけで、そのくせ他人を「ケッ」つって見下していたら、自分がドテッとつまずいて、そのみっともなさにありゃりゃとしきりに困惑したりもする。泣くに泣けない。やっぱりね、人が泣いてたら、「おお、かわいそうに」と反応するのがまともな人間のあり方なのですよ、そんな人間になりたい、と思った次第。
 ま、ほんとはそんなことどうだっていいんですけど。