音楽を聴く身体


 大仰なタイトルをつけてみたわけだが、ちょっとした思いつきをメモするだけ。羊頭狗肉


 昨日の日記で、ランシドは抑えた音づくりをした方がよいなどと、えらそうなことを書いたわけだが、彼らのやっかましいファースト・アルバムをあらためて聴きなおしてみたら、認識を改めねばならんのではないかと思った。


 やっかましいなあ、これやりすぎちゃうか、私がそう思っていたのはとりわけベースの速弾きについてである。ギターの速弾きに比べて、ベースの速弾きはうるさく感じやすいものだ。ベースの音は、ギターより聴き手の身体を揺さぶる幅が大きいからだと思う。
 ランシドのベースの激しさは、身体が振幅する可動域の限界を超えている。なんて堅苦しい表現わざわざしなくても「激しすぎて踊れねえよ」と書けばよいのだな。「踊れない」のは私が歳をとっただけかもしれないが、それにしてもムチャである、と思っていた。
 たしか、鎌田慧自動車絶望工場』に、生産力向上のために速度を上げられたベルト・コンベアーに、人間のほうが適応を強いられることへの違和感が述べられていたような気がするが、そんな話を思い出した。というのも、大げさな謂いですけどね。


 ランシドに対してはそんな認識をもっていたのだが、それをちょっと思い直したのは、昨夜寝入りばなに聴いたら、案外うるさくなかったからである。彼らのファーストアルバムを聴いていたら、不意に眠りこんでしまったのだが、その落ちていく意識のなかで聞こえたベースが、なかなかよかった。
 なるほどね、とひとり納得した。これは心静かにして向かうべき音楽なのだと。たとえばレゲエを聴くときのような、ベースのうねりに身をゆだねる聴き方をするには、そもそも適さない音楽なのだと。レゲエなどに反応する身体の部位を殺して聴くと、けっこう気持ちよいんじゃないか。
 そうして、ある部位の反応を殺すことで、他の部位の反応がとぎすまされていく。速弾きするベースに煽られず、冷淡をきめこむ。すると、ふだん音楽を聴くときに反応していなかった神経が音を拾い始める。
 そんなことを、昨晩はうつらうつらしながら考えた。ような気がする。