批評としてのリマスタリング、リマスタリングとしての批評


 昨日のつづき。
 音楽にかぎらないことだろうし、またわざわざ言うまでもないことだが、すぐれた作品というのは多様な見え姿をもっている。何度も聴いている曲なのに、「こんな音がこんなふうに鳴っていたのか」とはじめて気づくようなことがあり、そんな発見をしたときは、おおげさに言えば視界が開けたような気持ちがする。
 たしかに、そんな体験は、ひとりでくり返し同じ曲を聴いていても、突如おとずれることがなくはない。けれども、そこで、他人の聞き方を参照することができたら、さぞおもしろいだろうと思う。自分の聴いている曲が他人にどう聴こえているのか、のぞきみることができたらよいのに、ということだ。きっと自分がつかまえていない音を他人は感受しているはずで、それを知れたら、その曲の別の見え姿を得ることができるはずだ。


 小説やメディアなどに関しては、ブログなども含めてすぐれた批評がたくさんあって、「へえ、そんなところを見ているんだ!」と驚くことがたびたびある。古本屋で買った本に赤線が引いてあったりするのも、なぜそこに引いてあるのかさっぱり理解できないこともあるが、そんな場合でも、他人が注視している箇所をのぞきみるのはなかなか興味深い体験だ。はてなブックマークで、ブックマーク先の一文を抜粋だけしてコメント欄に載っけているのをよく見かけるが、これも古本の赤線的な機能を果たす可能性があるような気がする。他人が作品のどこに着目しているのか、という情報は、その作品の新たな見え姿を発見するために、有意義な情報だと思う。


 しかし、音楽の場合、そういった情報を言語化するのはなかなか困難だという感じがする。困難だというのは、一般論としてそう言えるのかどうか分からないが、すくなくとも私はそれがなかなかうまくいかなくて、でもなんとかやれないものかなあと思うものだから、こうして駄文を書き散らしているわけです。
 で、そんなことを考えていて、昨日、長くつきあってきたCDのリマスタリングを聴いてみたら、それまで見えていなかった側面が見えた。それで「あ、こんなの書きたい」と考えたのである。
 リマスタリングがどのように行なわれるのが、ぜんぜん知らないのだが、その人がとくに強調して聴きたい音を目立たせようという意思が、その過程に介在しているのではないかということは、考えられる。本に線を引っぱるように。あるいは、「はい、ここ聴くところ」と指をさすように。そういった意味で、リマスタリングは一種の批評と言えるのではないか。そんなこと、とっくに誰かが言ってそうだけど。 
 そういうリマスタリングのような批評を、言葉をつかってできないものだろうか。


 ところで、話がとんで申し訳ないのだが、私がテレビを見なくなった理由のひとつは、番組の作り手やタレントが、「はい、ここ笑うところよ」といちいち指図するのにうんざりしたということがある。というか、これは正確な言い方ではないな。むしろ、そうやって指図されたポイントで、なかばうんざりしていながらも、ついつい律儀に反応して笑っている自分に対して嫌気がしたということだ。たいしておもしろくないのに。
 こういう反応というのは、もう身体的に自動化していて、そんな自動化した身体に「うえ〜、きもちわりいぞ、オレ」とたえきれなくなったのだ。
 その点で、やっぱりナンシー関という人はすごかったのだと思う。番組が「はい、ここ笑うところ」「ここ、感動するところですよ〜」と指図するところとずれたポイントで、ひたすら彼女はおもしろがり笑っていた。それも、いやみを感じさせずに。
 そうやって笑っている彼女を、彼女の批評を通してのぞきみるのは、楽しかったし、刺激的でもあった。
 そんなふうに、作り手の意図とは別に、受け手は受け手として作品を多面化していくことができればおもしろいよな、と思うのである。そうすれば、「はい、ここサビですからね、ここで感動してくださいね」的な安直で押しつけがましい「プロジェクトX」みたいな音楽にイライラさせられることも少なくなるだろうに、と思う。「プロジェクトX」的なものの何にイライラするかって、意思に反してなかば感動しちまうことなのだな。で、そういうときの自分ってものすごく一元的に管理されてるという感じがする。