重松さんがこんな読まれ方をしている!
先日、帰省してゴロゴロしてたら、親戚の子(小学5年)が塾の宿題をやらなきゃならんというんで、私が勉強をみてやるってほどじゃないんですけど、国語の教材を見せてもらった。どうもそれは市販されているものではなく、塾向けに教材出版社が作った問題集であるらしい。
そのなかに、重松清の「エイジ」という作品がとりあげられていたのですが、その問題というのが、もうびっくり。というか呆れた。
問題文として引用されているのが 1000 字にもみたない一節で、しかも私はこの作品を未読なので、どういうお話なのか、詳しいことはわからない。引用されている場面は、大略つぎのようなものであった。
主人公である「ぼく」の友人である岡野という少年が、部活でみんなからシカトをうけている。その部の部員ではない「ぼく」は、「ぼく」の級友でもある部員たちにたいして、内心怒りをおぼえている。けれども、それを直接かれらにぶつけることができないでいる。
その「ぼく」の心情は、つぎのような独白として語られている。
岡野はシカトのことはなにも話さなかった。ぼくがあいつでも、ぜったいにそうする。親にも先生にも言わない。友だちにも言わない。オレはみんなからシカトされているんだ、と自分自身で認めることすらしないだろう。
で、これに関して以下の選択肢問題がつけられている。ちょっとびっくりするような問題ですよ。
「ぼく」と岡野に共通しているのはどんな点ですか。次の中から一つ選び、記号で答えましょう。
ア 気が弱く、人の輪に入ることができない点。
イ 自分は他人とちがうと考え、孤独を好む点。
ウ 人に甘えず自分で物事を解決する、しんが強い点。
エ 弱い者の味方をする、正義感のある点。
以上「ア」〜「エ」の四択です。とっさに後ろのページをめくってみましたが、「オ」という選択肢はありませんでした。どうですか、これ。
「ア」「イ」「エ」は、問題文との接点がないのは明らか。したがって、なんと、出題者は「ウ」が正解というつもりで、問題を作っているとしか考えられない。
この問題作成者は、「オレはみんなからシカトされているんだ、と自分自身で認めることすらしないだろう」という箇所をどう解釈したのだろうか。読まなかったのだろうか。「親にも先生にも言わない」のは、「自分で物事を解決」しようとしてではなく、「言えない」のでしょうが。
上の「ぼく」の独白を、「人に甘えず自分で物事を解決する、しんが強い」性格などと脳内変換する思考というのは、ちょっと信じられない。いじめは、「人に甘えず自分で物事を解決する」芯の強さが欠けている、という「いじめられる側の問題」なのだと、そういうことなのだろうか。そういう発想をふだんから持っていないと、なかなか思いつかない「解釈」(というか「曲解」)だと思う。
問題作成が、教材出版社の内部の人間によって行なわれたのか、それとも学校か塾の教師に外注されて行なわれたのか、わからない。でも、まあ、私の偏見もたぶんに含まれているとは思うけど、こういう思考の教師は多いような気がする。自分が昔に教わった教師にも、この手の発想に親和性のありそうな人はいっぱいいたし、大学生だったときにまわりにいた教育学部生たちのことを思い出してもそう思う。教師にかぎったことではないかもしれませんがね。
教育にせよ、それ以外の領域にせよ、「自分で物事を解決する」力だとか「芯の強さ」だとかの価値が重視されすぎるのは、いやな感じ。
なんて、また熱弁ふるってしまった。もっと、だらだらいこうぜ。