俺俺俺俺──「意見」を言うより自己執着してしまう俺について


 ネット上であれ他のメディアであれ、個人として文章を公開する場合、多かれ少なかれ自分のプライベートな情報のどの部分を公開して、どの部分を秘匿するのかという線引きをどこで行なうのか、考えざるをえないのではないかと思う。
 私の場合、仕事上で接触する人がもし読んでも、実名を特定できないような書き方を心がけている。それにしても、ある程度脇が甘くなるときが出てこざるをえないのではあるが。
 その一方で、趣味嗜好については詳細をいろいろと書き連ねているわけで、私的なつきあいのある人がたまたま読むことがあれば、「あいつが書いているんじゃないか」と勘ぐることは充分ありうるだろうと思う。今のところ、この日記の存在を友人にほとんど告知していないのだけれど、知られたら知られたで別にかまわない。


 で、こういうふうに特定の人にたいしては「実名」を知られないように書くとなると、書く内容が制約されるのはよいとしても、どこに「私」の足場を置くかという点が問題になってしまう。趣味嗜好、それもとりわけCDなどのマス・プロダクツにたいする趣味嗜好において「私」という人格を組み立てていくことには、多少のわずらわしさを感じてしまうこともある。
 そんなわずらわしさを感じるとき、私はヤバイと思うのである。そのわずらわしさを解消してしまうには、簡単な方法がある。「市民」とか「国民」とかといった「公的」でそれなりに安定しているかにもみえる主体へと「私」を回収させてしまえばよい。日記のなかで、「財政難」やら「領土問題」やらについて憂えてみたり、他人の書いた政策批判的な記事にたいして「批判するなら対案を示せ」*1なんつって噛みついてみたりすればよろしい。「市民」や「国民」として「私の意見」を語るのは易しい。それはヤバイ誘惑だよ、と私はためらう。


 誤解のないように言い添えておくと、これは一般論として述べているわけではないですよ。「市民」や「国民」としての立場から政府なり公務員なりを批判すること自体が問題だということではない。そうではなくて、「あ、おれって空っぽな人間だなあ」「書くことなんかおれの中にないよ」と自覚されたときに、そのすきまをうめるように「市民」「国民」という足場に自身を置こうとするのは、私は避けたいと思う。
 なんて書きながら思ったけど、こういうこと大塚英志さんが言ってなかったっけ? たぶんに曲解と単純化を含んでいるとは思うけど、私がいま書いていることは、大塚氏の著作から読みとったことを右から左に流しているだけだと思った。
 あらら、やっぱり僕って空虚ね。ああ空虚だ、俺は。こうして「空虚だ」などと嘯きながら「俺は俺は」「僕は僕は」と拘っている私は、きっと自己顕示欲のかたまりのような存在に違いなく、そんな俺が、僕のなかに自覚された空虚をうめるのと自分をよくみせたいがためだけに、「市民」「国民」という鎧を手に入れるのはよくないんである。
 って、こういう書き方も、私が敬愛するある小説家のヘタクソでどうしようもなく表層的なイミテーションであります。誰の模倣なのかということを書くと、本気で怒られそうなのでよしておきます。


 書くというのは、ほんとしんどいです。こんなくだらない日記を書いている私ですが、そう思いますです。だったらやめろってなもんではありますが、なんでやめないんだろうね、俺。と、また「俺」に還ってきた。やってらんねえ。
 そんな俺がいま言えるのは、これから俺がカボチャ煮を食って寝るだろうということ。カボチャ煮を食って「あま〜」とにやけている俺には、郵政民営化についての「意見」はない。で、この日記を書いている「俺」はこれからカボチャ煮を食おうとしている俺であって、そんな俺について俺はぐだぐだ書いているだけだ。

*1:こういう言い方の前提には、他者が統治者(=国民)としての「責任」において自分と対称的だという暴力的な思い込みがあると思う。この思い込みは均質的な「国民」という観念を媒介にしている。なんて書いている自分がよく意味わかってないんですが。