押尾コータロー / HARD RAIN


 空じゅうを、しぶきが覆っているかのようであった。すぐにやんだので濡れずに帰れたが、しばらく駅前の喫茶店で足止めをくらった。カミナリもすさまじくて、一瞬おもての通りのネガポジが反転したみたいだった。やたらと密度の高い雨粒が、窓から見える向かいのビルの灯りで照らされているのが、スモークが流れているようだった。


 なーんて、ヘタクソな「描写」で始めてみましたが、むずかしいものですね。「ようだった」とか「みたいだった」とか、明喩が鼻につく。


 今日とりあげるのは、フォークギター弾きの押尾さんです。この人は、ほんとすごい。演奏について語るときに「衝撃的」なんて言葉を使ってしまうのはぜんぜん衝撃的じゃないんですけど、この人の演奏をはじめて聴いたときは、ほんとびっくりした。
 何年か前に TOKYO FMアナム&マキの番組に、押尾さんがゲスト出演したことがあって、そのときに彼はこの HARD RAIN を生演奏したのだった。なんでも、アナマキさんたちと押尾氏は同郷(大阪)で、アナムさんは押尾さんにギターを教わったこともあるんだとか。アナム&マキにしろ押尾コータローにしろ、驚くような演奏をします。アコギってこんな幅の広い音がでるのか!
 楽器の演奏を聴いたり見たりすることには、大道芸を見るのにも似た楽しみがあると思う。ジャグリングを見て、「え? なにやってんの?」と目を丸くしたり、「まさか、こんなことが可能だとは思わなかった」と驚いたりするような。アナム&マキ押尾コータローのギター演奏には、そんな要素が盛りだくさんだ。
 もちろん、いわゆる「楽曲」だとか「音楽性」だとかの側面からも、高く評価されるミュージシャンたちであるわけです。しかし、私は音楽に「うわ、すげえ」「なんじゃこりゃ」という要素も期待してしまうわけです。ぜいたく言ってるんじゃねえよってなもんですが。そうして、バカみたいにCDを買いあさることになるのであります。


 さて、この HARD RAIN という曲。この曲はタイトルどおり、激しい雨を表現している。
 いま「激しい雨を表現している」と書いたわけだが、自分で書いておきながら、これはかなり妙な言い方だと思った。そもそも音楽とは、音の外の世界にある何ごとかを表現するものなのだろうか。
 言葉であれば、それが指示したり比喩したりする対象を一応は想定したりできるわけだが、音について私たちはふだんそのようなことを思わないのではないか。
 音楽には形式・様式はあっても、それを構成する要素に対応するような「現実」や「事物」をそもそも欠いているのではないか。あるいは、音楽とは、演奏とそれを感受する聴き手の身体とのあいだに生起する何かではあっても、その両者の外側の「世界」とは関係しない芸術ではないのか。音楽については、そんなふうな理解が一般的ではなかろうか。すくなくとも、私は基本的にそういうものとして理解している。
 しかし、押尾コータローの HARD RAIN は、激しい雨を「描写」しているとしか思えないのである。そんなこと可能なのかいな、と疑問に思われる方には、この曲は一度聴いてみる価値ありだと思う。


 雨を「描写」するなんて、並大抵のことではありませんよ。雨は、そこらへんのあらゆるものにぶつかって音をたてているのだから。激しく降りしきる雨は、トタンの屋根にもぶつかれば、傘をたたいて音をたてるし、樹木を打ち鳴らし、固いコンクリートアスファルトに跳ね返りもする。
 そんな多彩な響きを、この曲はアコギのみで(すこしパーカッションも入っているけど)たくみに「描写」しているかのように聴こえる。ハーモニクス音を効果的に配置し、低音弦をめいっぱい振れさせるときに出るビリビリしたノイズをいかす。演奏につけられた緩急も、まるで、「現実」の雨音を聴いているときに神経と脳のゆれによって作りだされる感覚のぶれのよう。雨の強さは変わらないのに、雨音が強くなったり弱くなったりするように聴こえるというあの感覚。


 こうやって文章で説明しようとすると、やっぱり明喩的なくさい語り方になってしまい、そんなところが私の文章修行の足りないところだなあと思うのですが。まあ、音楽について語る文章が、音楽作品に従属するのは、それでいいと思うんだけど。ていうか、むしろ、従属すべきさね。
 ともかく、この曲を聴くと、ああ HARD RAIN だなあと思うのであります。で、それはもちろん、かなりの部分、 HARD RAIN という曲タイトルに引きずられた感覚であるのはたしかだ。「HARD RAIN と言ってるんだから、この音は雨なんだろ」ってなわけだ。そういう意味では、タイトル(言葉)の持つ呪縛は強いものだなとは思う。
 しかし、この曲を聴いてすごいなと思うことのひとつは、単純にタイトル(言葉)が「現実の雨」を想起させるということにとどまらない、音の表現のもつ力を感じることなのだ。「現実の雨」よりも、この演奏のほうが雨らしく思える。「雨に似ている」「雨を模写している」というより、この演奏を聴いて「ああ、雨の音ってこういうもんだったか」とあらためて認識させられるっつうか。リアリティにおいて「現実」を凌駕するという、まさに「虚構」の条件をそなえているというか。
 なに? 歌なしのインスト曲が、「虚構」たりうるってことか。書いていて、またすげえ混乱してきたので、このへんで今日はおしまい。おやすみなさい。