「読書感想文」のおもひで


 中高生のみなさんは、もう夏休みが終わる頃ですね。なんだかこのところ、「著作権フリー+読書感想文+重松清」などで検索していらっしゃる方がけっこういるようです。
 残念ながら、ここにはないですよ。私がブックマークしたよそのページを、サイドバーに表示しているものだから、検索エンジンにひっかかってしまうようです。お探しのものは下のサイトでゲットできます。


著作権フリー![自由に使える読書感想文]


 まあ、このサイトの管理人さんが悪ノリして作った「模範文例」です(というふうに私は読みました)。パロディというやつですね。
 ちなみに、ネット上にあるものをコピぺして提出するのは、バレる危険大ですよー。教師の側からすれば、あやしい文字列を検索エンジンにかければ、すぐ元ネタにたどりつけるんだから。提出先の先生がたまたまパソコンを使えなくても、職員室には同僚の先生がいますからね。
 その点、上のサイトは親切で、PDF ファイルで公開しているので、検索エンジンにはひっかかりません。ところが、こういうサイトが存在するという情報は、先生たちのあいだで口コミで広がっている可能性も考えられますから、そのまんま写すのはあぶないと思われます。中高生の諸君は、うまいことやってね。


 それにしても、きょうびの中高生には、ネットで探すという手があるんだねえ。昔は、手抜きで読書感想文を仕上げるといったら、本を読むかわりに小説が原作の(あるいは、ノベライズされている)映画を観て感想を書くぐらいだった。なんてことを言うおれは、もうオッサンやなあ。
 しかし、コピぺはコピぺで容易ではないんだろうと思う。原文を加工してパクリでないかのように見せようと思ったら、そのことに神経をつかってしまい、かえって書くのが困難になるということはないのだろうか。もっとも、加工しようなんて意思がハナからなくてコピぺするだけだったら、そんなストレスなんぞ感じないんだろうけど。
 ところで、上でリンクしたサイトの管理人さんはこう言っている。

 さて、『羅生門』のように、読むこと自体が苦痛となる作品が課題図書になっている場合、感想文中に「おもしろくない」や「読む気がしない」などのマイナス表現の使用は避けるようにしてください。教えて系のサイトで、「思ったことを書くのが読書感想文です」や「つまらないと感じたらそれを正直に書くようにしましょう」などの回答を見かけます。しかし、これは自分が評価される立場にいない外野の人間による無責任な回答です。「おもしろくない」「つまらない」「読む気がしない」「分からない」と書いた時点で、読書感想文は負けです。読書感想文は自分の考えを主張する作文ではありません。センセイをよろこばし、高い評価を得るために書くものと理解してください。


 こういう疑問を発するのはそもそも無粋かもしれないけど、検索エンジンでコピぺの材料を探してこのサイトにたどりつく中高生は、「センセイをよろこばし、高い評価を得る」感想文を求めているのだろうか。そういう子たちの多くにとって、「高い評価」は二の次、三の次で、むしろ、どうやって期限までに原稿用紙の3枚なり4枚なりの作文をでっちあげるかというところで悩むのではないだろうか。
 たしかに、学校の各クラスに数人いるような「作文優等生」の観点に立つならば、このサイトが発している作文教育に対する批判は有意義なのだろうと思う。昨今ではどうなのかわからないけど、私が小中学校で受けた作文教育とは、「思ったこと」を「正直に」書くということに何よりも価値を置くようなものだった。
 で、くだんのサイトが示唆しているメッセージとは、そういう指導なんて、いわばタテマエのウソッパチであって、「センセイをよろこば」すための模範的な型が存在するのだということであろうと思う。「高い評価を得るため」の要素というのは、あなたの「正直」な内面にあるのではない、と。
 こういう批判というのは、有意義かといえばたしかに有意義だろうとは思われる。オトナになってから、かつて「作文優等生」だったという人の何人かから話を聞いたことがある。その人たちが異口同音に語るのが、「今思えば私はセンセイをよろこばすために心にもない『ウソ』を書いていたのであって、そんな当時の自分に軽く自己嫌悪をおぼえるよ」という話であった。「よい子」に「ウソ」を書かせ、そんなマジメな「よい子」に、あとあとトラウマというほどじゃないんだろうけど、軽い自己嫌悪を抱かせる、というのが作文教育だったのですね。まったくこれでは、自分に誇りをもつことをさまたげる自虐史(ry。


 しかし、そういった「作文優等生」ではない子どもも含めて考えると、作文教育には別の側面も持たされていると思われる。夏休みの宿題に読書感想文を書かせるのは、書物を読むという意味での「読書」とも関係なく、また文を作るという意味での「作文」とも関係なく、むしろ「管理」と関係している。
 教師というのは、ふだんから生徒を観察しているわけである。生徒は、そうして観察されながら、自分が教師によってどのような人格として「評価」されているのかということを意識する。だから、生徒は、自分が書いた「作文」そのものが「評価」されるのではないことを知っている。「評価」は、すでにふだんから行なわれており、その人格というかキャラクターに対する「評価」の一環として読書感想文の提出が求められているわけだ。
 もっとも、教師はそんなことを自覚的にやっているのでなく、「夏休み中も生徒に課題を与え指導してますよ」というアリバイとしての宿題のたんなるひとつとして読書感想文を書かせているつもりかもしれない。しかし、そうだとしても、とりわけ作文をうまく書けない子どもにとって、原稿用紙を何枚もうめる作業というのは、時間をくうし、難儀である。その難儀さの多くの部分を占めるのは、教師の求める「作文らしい作文」をどうやって書くかということではないだろうか。「作文らしい作文」とは、「書き直しを命じられたり怒られたりしないような」というほどでなくても、すくなくとも夏休み後に待っている学校生活において「教師に目をつけられてしまうことのないような穏当な」作文ということ。私がいくぶんオーバーな言い方をしているようにも思われるかもしれないが、「穏当な」作文を書くというのは、なかなか容易ではない。
 まず難儀なのは「つまらない」「読む気がしない」とは書けないということ。生徒たちにとっては、読書感想文とは、くだんのサイトが言うような「センセイをよろこばし、高い評価を得るために書くもの」にほかならないということ以上に、「つまらない」「読む気がしない」とは書いてはいけないものとして理解されているのではないのか。それを書くことは、作文の内容や論旨とは別に、教師の目を引く「不穏当な」発言として読まれるだろうから。
 そして、このこと以上に、読書感想文を書くときに圧力になると考えられるのが、すでに教室内で「評価」されている人格の枠内での「私」を、作文のなかにおいても演じなければならないということである。教室内で「おとなしい」人格として「評価」されている子は、思っていてもラディカルなことは書けない。「優等生」とみなされていない子は、「模範的」な作文というのがどういうものかかりに分かっていてもそれを書けない。だから、冒頭でリンクしたサイトの文例をそのままコピぺするわけにもいかないだろう。「こんなすげえの書き写したら、おれが書いた文章でないのがバレバレだって」。そうその子は考えるのではないか。優等生は模範的な感想文を、不器用な子は素朴で洗練されていない感想文を求められている。
 もちろん、私は無粋にもくだんのサイトにケチをつけようとこれを書いているのではない。
 私が言いたいのは、すくなくとも私が受けた学校教育における作文指導というのが、教室内で与えられた「私らしさ」を気にして書くことを児童・生徒に求めるものであったということである。そのことの圧力こそが生徒にとって作文を難儀なものにしているのではないか。かりにコピぺでなく自分が書いたのだとしても、生徒は「これじゃあ、おれが書いた文章でないと判断されそうだな」という倒錯した思いにとらわれてしまうことは、ありうる。パクリ云々というより、教室で与えられ、また期待されている人格的評価(これは教師だけが作るものではなく、同級生との関係も介在しているのだろうが)をふみはずすせないということが、書くことを困難にしている大きな要因のひとつではないのか。


 とまあ、長々と書いてしまったのだが、子どものころは、作文が嫌いだったし苦手だった。とくに「読書感想文」というやつには、因縁がある。ホント書くのがイヤでした。
 だもんだから、高校のときに、川端康成の『伊豆の踊子』の感想文が課題として課されたときは、「こんなくだらなくてひどい小説は生まれてはじめて読んだ」と書いた。夏休みの読書感想文の宿題には、「読書感想文を書かせるということがなぜ無意味なのか」という作文を書いて提出した。内容はよく覚えていないのだが、たしか「おいセンコー、オレたちの感想を評価するってどういうことだよ、え? テメ、何様のつもりだ、あ?」というような論旨(?)だったと記憶する。ありったけの力をこめて一所懸命に書いたおぼえがあるが、論理は相当にムチャクチャだったはずだ。しかし、あれは私が生まれてはじめて本気で書いた文章であった。
 いずれの作文にも提出先の国語の先生はなにも言わなかった。ナマイキなくせにあまりに稚拙な論旨にあきれ苦笑したのか、たんに読まなかったのか、どちらかだと思う。その先生は、休暇の旅行に太宰の生家をたずね、その写真を授業で見せては町の様子などをうれしそうに語るような、おだやかな人だった。悪いことをしたと思う。私は、反抗する相手をまちがった。まちがったというか、怒られることはないだろうという計算づくで「反抗」してみただけだった。
 不登校気味の生徒を率先していじめていた英語の教師に反抗すべきだったのだ。宿題のかわりに、「夏休みの英語の宿題はなぜ無意味か」という作文を提出して。そうすれば、私はまちがいなくぶん殴られていたのだ。