心おきなく病気になれる世の中に棲みたい


 卒業して10年以上たつというのに、このところ高校にまつわる夢を見る。


 自室で起きて出かける準備をしようとするのだけれど、今日の「時間割」を忘れてしまっている。出かけたくない寝ていたいという身体と、それでも行かなければならないという焦りの葛藤のなかで、「時間割」を思い出そうとしているのだが、思うようにいかない。
 「1時間目古文、2時間目化学……」などと順に記憶をだどっていく。ところが、「5時間目」あたりまで想起したところで、さっき思い出したはずの1時間目が何だったか、失念していることに気づく。また、やり直し。「1時間目は基礎解析、2時間目は……」。

 これとよく似た別バージョンの夢も見る。
 今度は、高校の教室とおぼしき部屋が舞台。授業が始まろうとしているらしい。そこで突如気づく。そういえば今日の「時間割」が記憶から抜け落ちている、と。カバンのなかには教科書やノートがつまっているようだが、「時間割」を覚えていないということは、「時間割」どおりの用意をしてきていないということではないのか。そう思いいたって愕然とする。
 「えーと、1時間目はたしか英語だったかな……」
 そうやって「時間割」を思い起こそうとしながら、何とかしなければならないという焦りと、この場から逃げ出したいという欲求に葛藤する。


 そんな夢を見て、目覚まし時計に起こされるということが、ここ1ヶ月くらいの間に頻繁にある。こういう夢を見たときは、きまって身体は、起きあがろうとする意思に激しく抵抗する。
 「時間割」の夢は、私の今の現実を暗示しているのだと思う。「暗示している」というのは変な言い方だな。「明示している」だ。
 そもそも、「○○は△△を暗示している」とか「○○には△△が隠蔽されている」とか、その手の文は、たいがい次のように置き換え可能だったりする。すなわち、「○○は△△をあらわしている」「○○から△△が読みとれる」などと。
 目の前に現われているものまでわざわざ自分の手で隠し、そんでもって自分でまた暴くなんて面倒なことを、なぜするのかなあ。なんて、その昔、無駄にペダンチックな文章をよく書いていた僕は、今にして思うのです。「いないいないばあ」やってんじゃねえよ、と。


 話がそれた。「時間割」の夢についてでした。
 近ごろ、「時間割」を忘却する夢を頻繁に見るということは、スケジュールなんか忘れちまえって身体が要求しているということだろう。それはそれは、恐ろしいことで、身体に言うことを聞かせないとならんわけだけど、「根性みせろこら!」とかムチで鼓舞するのが逆効果だってことは経験的にわかっているのであって、アメを与えてなだめすかすしながら説得するしかない。だけどアメは出ないのだな、当分。そういうわけで、いつストライキを起こされるかわかったもんじゃなく、冷や冷やもので、また、そんなことを考えているとますます悪夢を見ることになりそう。寝るのが怖い。
 と、だらだら書いているうちに、深夜の3時半。翌朝は7時半起床の予定。ほんとダメ人間です。
 ダメ人間だって言うついでにもうひとつ言っとけば、「仮病する権利」は基本的人権として認めて欲しい。これはマジで。そんで自治体とかが啓蒙活動するわけ。
 「仮病することで自責の念を感じたり、気に病んだりする必要はないのです。仮病は市民の正当な権利です。必要なら堂々と仮病を使いましょう。また、雇用主は仮病者を不当に差別してはなりません。」