想像上の煙草がいちばん旨い


 何年かぶりに煙草の銘柄を変えてみた。マイルドセブン・ライトからホープ・ライトに。
 香料の甘さがちょっと新鮮。火をつける前にしばらく口にはさんで香りをたのしむ。


 子どもの頃によくかわいがってくれたおじさんが両切り(フィルター無し)のピースを吸っていて、吐き出す煙が甘くて芳しかったのを覚えている。で、自分も喫煙する年齢になってからピースも試してみたのだが、実際に吸ってみると、その甘い香料が口のなかでべたべたとしつこくて、どうも合わなかった。
 今までくせのある香料のついた煙草は敬遠してきたのだけど、ホープはけっこういけるような気がする。


 でも、煙草の香料というのは変なものであると思う。ほかの喫煙者にとってどうなのか分からないが、私にとって喫煙している間の香料というのは、旨いわけでない。香料が香ばしく匂うのは、第1に火をつける前。第2に、自分が吸っていないときの他人が吐き出す煙である。火をつけてしまうと、煙の刺激で嗅覚が麻痺するからだと思われる。
 思えば、煙草が一番旨いのは、妙な言い方だが、火をつける前である。たとえば、喫煙の許されない建物から出て、外に設置された灰皿の前で他人が吐き出している煙に、思わず吸い寄せられていくときなどである。まだ、自分のには火をつけていないのに、「ああ、煙草って旨いもんだよなあ」と思う。
 つぎに旨いのは、長時間がまんした後の最初のひと吸いである。ただ、これは、火をつける前に他人の煙を嗅いで身体が思い描いていた旨さには、若干劣るような気がしないでもない。しかし、ああまで渇望していた煙が実際には不味いなどということがあるわけがない。旨いに決まっている。旨いはずだ。「ああ、やっぱり煙草はよいのー」と自分に言い聞かせながら楽しむのである。
 かくして、喫煙を趣味としてたしなむことには、「イマジネーション」(「操作ないし捏造された記憶」ともいう)の喚起を要する。私たち喫煙者は、他人が吐き出す煙およびその所作から、そして何十分か前に自身が吸った記憶の煙から、想像上の至高の芳香を編み出す。煙草の快楽は、かように精神的産物なのである。
 ある種の思想的傾向をもつイデオローグは、これを「ニコチン依存症患者の妄想」だというかもしれない。たんに、「禁断症状がみせる幻覚」なのだと。実際、それは必ずしも間違いではないのだろう。しかし、快楽をたんなる受動的なる生理的反応へと還元して説明しようという態度こそ、「不粋」って言うんだぜ。
 もっとも、他人を「不粋」と嘲笑する者は、たいがい敗北や挫折を心に秘めているのだが。いままで、何度、敗北し挫折したことか。禁煙の道のりは果てしなく(そう、果てしないのである)長い。