禁忌、引き返す意識、地縛霊に抗する意識


 11時ごろには倒れ込むようにして眠ったのに、現在、未明4時20分。目が醒めてしまった。眠りと覚醒のはざまで考えるともなしに考えていたことを記述してみる。


 憎たらしいあの野郎をタコ殴りにしてみる。洗面所に立って、剃刀を手首にあててみる。核ミサイルのスイッチ(って、見たことはないが)を押してみる。戦場で敵を撃つ。


 めったなことでは、そんなことは実行にうつさないわけである。というより、めったなことで、そんなことを想像すらしないわけである。
 ことに、殺傷──自分に対するそれを含む──に関して、われわれの意識には何重にも鍵がかかっている。すくなくとも僕の場合、ふだん、「剃刀を自分の手首にあててみる」という情景を具体的に想像することは、まず、ない。想像を開始し、情景が具体的でなまなましくなる手前で、意識は勝手に後戻りを始める、のだと思う。「おい、それ以上想像するのはやめろ」と。そうやって意識が危険を察知して引き返すさまは、それが自動的なメカニズムとしてわれわれの身体に組み込まれているかのようでもある。


 地縛霊の風説を思い出す。自殺が多発している踏切などにたたずみ、姿を見せずに生者をそれとなく誘いかける地縛霊。
 冷静に考えれば他愛のない話であるのだが、にもかかわらず地縛霊の風説にいくらかの恐れを感じとってしまうのは、僕らは「向こう側に引っ張り込まれる」あの感覚を「知っている」からではないのか。
 しかし、その「知っている」というのは、すでに体験したことして「知っている」ということなのだろうか。それとも、経験とは別に、「あの感覚」が、意識にブレーキをかける何らかの機構──「本能」といっても「無意識」といっても「身体」といってもよいのだけど──に、あらかじめ組み込まれているのだろうか。


 不可知である「向こう側」を想像しがたいからなのか、あるいは真面目な信仰をもたない私に「向こう側」の観念が欠けているからなのか、それとも「自己保存の本能」(つまらない概念だ)のゆえか。いずれにせよ、自分の手首に剃刀をあてる具体的なイメージまで意識が到達することは、いちじるしく難しい。そこに向かおうとしたとたん、何かが意識に後戻りを命ずる。


 で、もっと先に行くためには、戦略を変えなければなるまい。想像力が喚起されやすいような状況を、試しにつくりだしてみることだ。


 洗面所の鏡の前に立つ。剃刀を用意する。蛇口をひねって流しっぱなしにする。まずは、準備をととのえることだ。実行に移すことが可能な状況を――状況だけを――身の回りにつくりだすことだ。


 しかし、「準備を完了した自分」という像を想像しおえたところで、まだ準備に着手してもいないのに、私の意識に対して別の意識が引き返せと命ずる。誰なんだ、お前は?




 やばい。寝よう。
 続きは、また今度、気力と体力が充填されてからだ。