Michael Jackson / Thriller


 大げさな言い方をさせてもらえば、これまで生きてきて、音楽の聴き方がガラッと変化してしまうような転機というのが何度かあったように思う。


 ひとつは、中学生のころだったか、親が所有していてホコリをかぶっていたビートルズのLP(『アビー・ロード』などがあった)やカセット・テープ(ラジオのエアチェックもの!)に出会ったとき。
 僕は、その頃すでに和音というものがどうやら気持ちのよいものだということにはかろうじて気づいていたものの、アンサンブルというものが意識にのぼるようになったのは、ビートルズと出会ってからだという気がする。「アンサンブル」なんてボキャブラリーは当時の僕になかったわけだけど。
 たんなる「歌+伴奏」ではない、要素の組み合わせの妙がどうやらパートの総和以上の効果を生みだすらしい、ということに自分の趣味と興味が向かうようになった大きなきっかけは、思い返してみるに、やはりビートルズではなかったかと思われるのである。
 ビートルズについては、コーラスの絶妙さにもひかれたものだが、なんといってもポール・マッカートニーのベースのとりこになった。ベース・パートが曲の「全体」を構成する決定的に不可欠な要素になっているのだろうと、何やら分かったつもりになったものである。
 そんなつもりで「全体」を注意して聴いてみると、ますますマッカートニーのベースが正視しがたい淫靡さをおびているように感じられた。まるで、ひきだしの奥に隠したエッチな雑誌をこっそり開いているのにも似た、興奮と羞恥の入り混じった感情をいだいたものである。
「これってなんというかエロいような気がするけど、他の人はみな平気で聴いているんだろうか。こんな曲おおっぴらに聴いてたら、ひとから変に思われないだろうか。それとも、こんなに興奮しているのは俺だけだろうか。俺って変?」
 などと誰に尋ねるでもなく、自問自答しつつ、目が釘付けになっていた思春期の夜。あのころの心はどこへ行ってしまったのだろうか。「もし見られたらどうしよう」とか「俺って変?」とかの他者の視線を媒介した羞恥の情が消え去り、暴力的に対象化した「作品」を──一方的に見る主体として──屈託なく「鑑賞」するようになったとき、僕のなかの「男の子」は姿を消し、思春期が終わったのだろう。


 また話がそれた。本題が何だったか忘れるところであった。
 マイケルの「スリラー」について書くつもりなのだった。マイケル・ジャクソンもまた、私にとって音楽の聞こえ方に変化をもたらすような存在だったと思う。こういうこと書くのは、ほんと恥ずかしいなあ。


 いまさら私ごときが言うのも恐縮ではあるが、マイケルってとても器用ですよね。なんか書いててバカみたいだ。彼の歌い方というのは、ひきだしがたくさんあるというか、持ち芸が無尽蔵にあるという感じ。全貌が見えない。というわけで、彼の歌い方というのは「歌い方」などと言うのも不適切に思われるような、異次元に突き抜けた何かであるので、これ以上ここで語ることはなにもない。おしまい。
 さて、やっと本題。「スリラー」という曲をむかし初めて聴いたときに僕は「何だあコレ?」と驚愕しつつも、淫靡な快感をおぼえた。これっておおっぴらに気持ちいいって言っていいのかしら、と。
 今になってみると、その当時びっくりしたのが何だったのか分かるような気がする。まあ、今考えるとそんなに難しいことではない。
 今より乏しい音楽鑑賞経験しかなかった当時の僕にとってショッキングだったのは、ベースが曲のコード進行を無視して、ほとんど曲全体をとおしてワン・コードで突っ走っているということだったのだと思われる。シンセとホーンがコード進行を指示し、ボーカルもそこに乗っかった歌い方をしているのに、ベースは頑固一徹キーのコードから動かない。曲は前に進むのに、曲展開から独立したベースとギターとポッポコいってるヘンテコな SE によって強力に後ろに引き戻される感じが、緊張感があって異常にスリリング。
 コードが進行しているのに拘らず、ベースは動かさないで強迫的に旋回をくり返させておく、というのは、ロックでは曲全体を通して露骨にやるということはほとんどなさそうだけど(私はその例を知らない)、ダンス系の音楽なんかでは特別にめずらしいことはないのかな。ロック以外の音楽にはほとんど無知なので、イイカゲンに書いていますが。そういう曲があったらほかに聴きたいなあ、と思いました。