コロスケなり、おいしいなり〜


 ここにひとつ、悩ましい問題がございます。
 たとえば、他人様より食事に招かれた場面。饗応に感謝し、御馳走が大変に美味であることを相手方に伝えとう存じますとき、何と申せばよろしいのでございましょうか。
 食事が済んで食器が下げられたのちのことでしたら「おいしかったです」、まだ食事を楽しんでいる最中にありますれば「おいしいです」と申し上げるのが、わたくしの「格」から考えましても妥当な気がいたします。けれども、わたくしはそこでつまづいてしまうのでございます。



 考えてみますに、「おいしい」は形容詞でございます。終止形が「い」で終わるのが形容詞なのだそうでございます。「悲しい」「苦しい」も同じです。
 他方、終止形が「だ」で終わる「きれいだ」「不思議だ」等につきましては、形容動詞と呼び、これを形容詞と区別するのだと聞きました。


 さて、「おいしいです」の「です」は、断定の意を表す助動詞、すなわち「だ」と等価の語と考えられます。常体では「だ」、敬体では「です」と使い分けるのでございます。
 形容動詞の場合、何も問題は起きません。「きれいです」は「きれいだ」の、「不思議です」は「不思議だ」の、それぞれ敬体と解されるのでございまして、ここに不都合は生じません。
 困りますのは、形容詞を敬体で用いるときでございます。すでに述べましたとおり、形容詞の終止形は「い」で閉じられます。そして、その語尾に断定の助動詞をつけて「おいしい+です」などとするのは、不自然に感じられます。
 『キテレツ大百科』のコロスケ君の言う「コロスケなり」(名詞+断定の助動詞)や「不思議なり」(形容動詞)は、正統的用法ということになります。ところが、「おいしいなり」「うれしいなり」(形容詞+断定の助動詞)は、正統から逸れた用法といわざるをえません。
 「です」につきましても、同様に、「きれいです」(形容動詞)はようございますが、「おいしいです」(形容詞+断定の助動詞)はわろうございます。この事情は、「です」をそれと等価であるはずの「だ」に換えてみますれば、はっきりいたします。


「おいしいです」→「おいしいだ」
「うれしいです」→「うれしいだ」
「楽しいです」→「たのしいだ」
「悲しいです」→「悲しいだ」
「欲しいです」→「欲しいだ」
「せつないです」→「せつないだ」
「あなたが愛しいです」→「あなたが愛しいだ」
「もう死にたいです」→「もう死にたいだ」


 困りましたね。困りませんか。わたくしは困りました。
 「おいしいです」は、カリカチャーされたイナカモノが話す言葉としての「おいしいだ」、あるいはヤンキー言葉・体育会言葉としての「おいしいっす」と同様の「文法」にのっとっていると言えましょう。これは「正統的」な「文法」からの逸脱でございます。
 「おいしい」の敬体は、「おいしうございます」「おいしくございます」が正統でございます。


 ここでまず困惑いたしますのは、もてなしてくださる親しき友に向かって「おいしうございます」と申せますか、いや申せませんでしょう、ということです。「なんだこいつは」といぶかしげにみられることでしょう。
 親密さにおきまして肝要なのは、「文法」ではなく「慣用」でございます。「おいしいです」とふつう言うよね、「おいしうございます」はふつうでないよね、ということが「おいしいです」という用法の妥当性を保証するのでして、そこに「文法的」な「正統性」などという理屈をもちこむ者は、その親密な関係をすでに喪失していると言えましょう。
 「文法」に拘泥するような性向は、──生きられた発話からの疎外として「文法」なるものがあらわれるように──親密さから疎外されました結果なのでございます。神や人との親密な関係を生きることがかなわなくなり、「教義」が疎外されましたとき、わたくしどもは原理主義者たらざるをえなくなるのではないでしょうかのうございましょうか。
 仲間言葉がもはや自分にとって内的なものにあらず、かつ「おいしうございます」が規範となるようなハイソな社交への脱出の可能性も閉ざされ(と申しますか、そんな社交などもう存在しておりませんのでしょう)たとき、帰るところも行く先もなくございます。
 かといって、「原理」とは対象化された屍にすぎぬのでございまして、その疎外された対象におのれをしたがわせて慰みを得んとするのは、むなしうございます。馬鹿馬鹿しうございます。


 かくして、わたくしは「おいしうございます」とも言えず、結局「おいしいです」と言うのでございますが、なにか奥歯にもののはさまったような居心地のわるい気持ちがいたします。「おいしいです」と発話した瞬間に、脳裏では「おいしいです」→「おいしいだ」という変換がおのずとなされまして、くすっと笑うのでございます。最近、みずから発話するあらゆる「です」が、わたくしの意思とは無関係に、つぎからつぎへと脳裏で「だ」に変換されまして、これをとめることができずに日々をすごしているのでございます。