露店商と神隠し(2)


 私が中学生の時分住んでいた秋田市は、ちょうど5月の大型連休に花見の季節が重なる。千秋公園という、美しいお堀に囲まれた大きな公園が桜の名所である。秋田駅のまん前に位置しながら天然記念物のカモシカが現われるというステキな場所だ。花見の季節には、連休ということもあり、連日昼間から露店が建ち並び、酒宴をもうける人たちでにぎわう。ちなみに、前日リンクした「生徒指導だより」には、花見にあたって「酒気を帯びている人が多いので,そういう人には近づかない」との注意事項があったが、そりゃ無理というものである。だって、「酒気を帯びている人」だらけなんだもの。
 新学期早々、この連休+花見という、中学校の「生徒指導」の観点からは頭の痛い(らしい)ビッグ・イベントがやってくるのである。私が入学してまもなく、大型連休の注意事項を訓示する全校集会なるものが開かれた。このときに教師の口から聞いた「説話」が、大変に印象深く、いまだに鮮明な記憶として残っているわけである。
 前日引用したのと同じ「露天商の手伝いやまねごとは絶対にしない」という指示が、この集会で通達されたのであった。その際、教師が物語った話は、もうなにせ聞いたのが20年近くも前のことだから、私の記憶のなかで変形・捏造されている部分があるかもしれないが、おおむね以下のようなものだったと思う。

 何年か前のわが校の女子生徒で、5月の連休をさかいに行方不明になった者がいる。勉強の面でも生活や服装の面でもまじめな生徒だった。警察のほうに捜索願いを出して探してもらったが、見つからなかった。
 千秋公園の花見で、その生徒が露店の人に誘われてその手伝いをしているのを、複数の同級生の友達が目撃している。これがその生徒を見かけたという最後の情報で、以後の彼女の足どりは途絶えてしまっている。


 翌年の花見の季節。千秋公園にて、その失踪した生徒によく似た少女が露店で働いているのを、うちの学校の同級生だった女友達が見かけ、声をかけた。ところが、その少女は声をかけれらるやいなや逃げるようにその場を去り、姿を消してしまった。
 声をかけた友達は、少女が行方不明の彼女であることを確信したが、その姿はまじめだった以前の彼女からは考えられないほど変わりはてていたと言う。髪を茶色に染めて、派手な化粧をし、服装はそまつであった。
 きっと彼女は、露天商となり全国を渡り歩く生活をしているのだろう。そういうことが実際にあるんだから、みんなは露天商から誘われても、けっして手伝うようなまねはしないこと。


 たしかに、こうやって書きおこしてみると、私が当時聞いた話をそのまま「再現」しているのではなくて(そんなことは不可能だ)、私自身がある程度加工してしまっている自覚はある。しかし、すくなくとも《露天商に誘われて失踪→変わりはてた姿での出没》という筋立てそのものには、私の記憶ちがいはないと思う。
 『遠野物語』に収められていそうな話である。神隠しですね。
 少女がある日、忽然と姿を消す。その後、里の男が山に入り、山姥に出会う。話を聞いてみるに、なんでもその山姥はかつて姿を消した少女であり、山人の妻にめとられ、里に帰ることができないでいるという。山姥は里の者によろしく伝えてくれと言ったきり、また姿を消してしまう。
 むろん、私のいたところは近代的な都市であって、神隠しが言い伝えられるようなムラではない。しかし、神隠しの説話と同形の物語が、学校という場において語られていた(ひょっとして、いまでもわが母校では語り伝えられていたりするのかなあ)ことは、興味深い。


 ところで、大塚英志は、『遠野物語』にみられる神隠しの説話が、山の神への人身御供として語られていること(「山人の妻」の物語)の背景に、近代化による村落共同体の崩壊をみている。ムラから都市への出奔者が増加すると、共同体の成員を再生産するイニシエーションの仕組みが危機に瀕する。そうしたなかにあって、ムラからの出奔を禁忌とする意識の反映として、神隠しの物語が語られる(『人身御供論』ISBN:4044191115)。

 それにしても、なぜ、〈神隠し〉の娘たちの後日譚として、繰り返し「山人の妻」の物語が語られねばならないのか。近世末期から明治はじめの遠野郷がいくら閉鎖的なムラ社会だとしても、遠く離れた別のムラなり町で何らかの人生を送るという可能性はまったくなかったのだろうか。おそらく、そういった合理的な物語は意図的に拒否されたように思う。異界に一度立ち入った女が別のムラや町に出現したとき、彼女たちの物語は上昇の物語となる。共同体の論理にとって、ムラの外部で構成員が〈成人〉することを許容するわけにはいかない。外部に行くことは、死あるいは供儀となることであるからこそ、異界へと脱出するかたちでのイニシエーションの仕掛けは、フィクションの領域にとどまり、ムラに生まれた子供は、もう一つの現実的な儀礼を経て、ムラの内部で〈大人〉になる。そうでなければ、共同体は再生産されない。したがって、「山人の妻」をめぐる事実譚の背後には、異郷脱出願望に対するムラの強い禁忌が存在していたといえる。
 だが逆の見方をすれば、『遠野物語』に「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。殊に女に多しとなり」とあるように、既に近代をむかえムラの解体が現実のものとなり、ムラの外部に出奔する者たちが増加しつつあったからこそ、出奔者の運命を強調する説話が「禁忌」として執拗に語られたと考えることもできる。近世末期から明治初期に、凋落した山の神たちの活動が、突如活発になったとは考えにくい。むしろ、共同体の内部に子供や娘がとどまり〈大人〉になるのとは別のかたちでの「成人」を、この時代はすでに可能にしつつあったのである。ムラが子供をその内部に押しとどめる力が弱体化し、同時に〈都市〉という、〈山〉とは異なるもう一つの外部が出奔先として意識されるようになった。それが、神隠し増加の背後にある事態ではないのか。共同体の〈外部〉に、死を意味する〈山〉しか存在しなければ、人はムラの内部での成熟を現実的な唯一の選択とするが、その〈外部〉が都市空間という現実の場所として浮上してきたとき、出奔者は増加する。


 先に紹介した露天商と神隠しの「説話」もまた、「外部」に対する学校という共同体の防衛意識が生んだ――いくぶんいびつな――禁忌の物語であったと言えるのではないかと思う。
 そして、この神隠しの物語が、学校という、性的なものの徹底的な排除と、成熟を禁忌とすること(「中学生らしい服装を心がけなさい」)をおそらく不可避的に前提とせざるをえない「共同体」において語られたという意味はなにか象徴的ではないだろうか。「共同体」そのものは再生産の仕組みを内在的にもたず*1、年度ごとの世代交代(卒業生の離脱と新入生の参入)のみによって更新され維持されていく社会。
 しかし、この擬制のムラは、もはやたえず「外部」からの侵食にさらされるほかないのではないか。学校の外部の都市的なもの――学校側の観点からは「声かけ事案」「携帯電話」「恐喝」「学習塾」「露天商」といった像として差し迫っているであろう危機――の脅威は今後とも増大していく一方であろう。
 学校という制度は、21世紀をむかえることができるのであろうか。


 あ、もう21世紀なんだった。






 ごめんなさい。もうだめだ。難しいこと考えたら頭パンクしそうだわ。
 ほんとは、この文章は、1986年に聞いた露天商と神隠しの説話をなぜかいまだに忘れず記憶しているという、私にとっての意味を考えるつもりだったのだ。
 あの説話を聞いた当時の私の感想は、「あ、その手があるのか」というものだった。露店の仕事をしながら、全国を渡り歩くなんてロマンチックだな、と。

*1:前近代的なムラと異なり、学校はその仕組みを、「解体」を待つまでもなく、はじめからもたない。