石田衣良ってヤバくね?


 先週の『週刊文春』(11月17日号)が、例のタリウムによる毒殺未遂事件の特集を組んでいる。
 こうした未成年者による事件(といってもこの件の少女はまだ「被疑者」にすぎないわけですが)が起こると、毎度メディアは「取材」と称して、いっせいに「徴候」探しを始めるわけである。「クラスにはあまりなじめず、友達はあまりいなかった」とか、「ネットにはまっていた」「ホラー映画が好きだった」とか。
 この事件の被疑者である少女は、ブログを公開していたということもあり、メディアにとってかっこうのネタにされているようである。私は最近ほとんどまったくテレビを見なくなったのでワイドショーなどがどう報じているのか知らないが、週刊誌などの記事を読めば、おおかた想像がつく。
 まず、事件が「異常」と断じられる。しかし、「異常」とはなにをもってそう言えるのだろうか。かりに、そう言える基準なるものがあるのだとしても、あらかじめ「異常」と規定するところから出発するような「理解」とは何だろうか。
 そして、事件が「異常」と規定されたならば、つぎに当事者の過去へと遡行することで、事件の「徴候」が洗い出される。こうして洗い出される「徴候」は、他愛もないものであっても(実際、そのほとんどは他愛のないものであるが)、事件があらかじめ「異常」と規定されていることによって、さも意味のある「徴候」であるかのように語られてしまう。
 第三段階としては、かくして意味づけられた「徴候」が一般化された文脈で「社会問題」として語られる。『文春』の当該号には、草薙厚子というジャーナリストによる「酒鬼薔薇佐世保女児との驚くべき共通点」なる記事が載っているのだが、これがまたひどい。

 この数年、いわゆる"普通"の家庭環境のもとで育った子どもたち、それまで全く補導歴もない子どもたちが、いきなり凶悪犯罪を犯すケースが増えています。彼らに共通しているのは、何らかのメディアに深く没頭していることです。ホラービデオやテレビゲーム、インターネットなど、活字ではなく映像が大きなインパクトとして脳を刺激するようなメディアです。
 小さい頃からそうしたメディアに没頭することで、善悪の判断やコミュニケーション能力をつかさどる前頭葉と呼ばれる部分の働きを鈍らせると言われています。その結果、現実と幻想の境目がわからなくなってしまい、他人の感情などにも無頓着になってしまう。


 「インターネット」が「映像が大きなインパクトとして脳を刺激する」メディアだという理解がどこからくるのか不思議だが、それは措くにしても、ひどいのは「彼らに共通しているのは、何らかのメディアに深く没頭している」というくだりだ。現代人は多かれ少なかれ「何らかのメディアに深く没頭している」のではないですか。小説をほとんど読まない人(大多数はそうだと思うけど)の目には、年に何十冊何百冊もの小説を読む人の様子は「異常」なほどの没頭と映るだろうし、私のようにテレビを見ない人間からすれば、1日に何時間もテレビを見るのは「何らかのメディアに深く没頭している」ように見える。
 そして、「映像が大きなインパクトとして脳を刺激するようなメディア」を問題にするならば、まずテレビこそ問題にすべきであって、草薙氏がこれを問題にしないのはなぜだろうか。それは、たんにテレビは、これを日に何時間も見る人が国民の大多数を占めるため、「異常」の「徴候」として説得力を欠くからにほかならないのではなかろうか。


 ともかく、この記事にかぎらず、未成年による事件においては、「インターネット」であれ、「しつけの厳しさ」や反対に「しつけに対する無頓着」であれ、恣意的に見出された「徴候」が、これもまた恣意的に「メディア」や「家庭」の問題として一般化され「社会問題」化される。
 この点では、同じ『文春』に寄せられた石田衣良の「少女がブログで「僕」と名乗った理由」は、いくぶん慎重な語り方をしてはいる。

 それよりも、これを社会問題であると重くとらえすぎて普通の家庭が過敏になってどんどん子どもを締め付けて、普通の子どもが壊れていったりすることのほうが心配です。


 しかし、この短い引用箇所で2度「普通の」という語が使われていることからも分かるように、石田氏が「社会問題」として語ることに慎重なのは、以下のように少女を「異常」と決めつける認識と表裏の関係にある。

 彼女は情緒系の部分が完全に欠落した人格障害なんだと思います。これは非常に特異なケースであって、現代の十代の子どもたち全体に敷衍して考えられる問題ではないと思います。


 石田さんってお医者さんなんだっけ? 違うよね。かりに医者だとしても、診察もせずに「人格障害」なんてレッテルを貼るのは許されないことだと思うのですけど。
 で、この人は他の箇所でも「この少女には、他者に対する共感とか、共感を通じて人と人がつながる情動の部分が全く欠け落ちているなと思いました」などと決めつけているのだが、その根拠として引いているのが、少女のブログである。私は、この石田氏の文章を読んで、まあ非常に腹立たしく思ったのだけど、それ以前にこの人は小説家として大丈夫なのかと余計な心配までしてしまう。

 たとえば、買った薬剤の瓶やスプレーの商品だけを羅列するくだりなんかは僕には非常に面白かった。ですが、薬品名とか情景の描写は豊富にあるんですけど、それに対する感情的な反応や自分自身に対する評価みたいなものはほとんど書かれていない。


 この一節は、先の「情動の部分が全く欠け落ちている」うんぬんという箇所の直後を「たとえば」と受けているところである。したがって、「書かれていない」ことを共感の情動が欠けていることの根拠としているわけである。感情的なことが直接書かれているかいないか、ということと、感情や情動の有無は別問題ではないのか。しかも、少女のブログは、「僕」という一人称で書かれていることからも、きわめて自覚的に虚構化されたものであることが明らかではないのか。こんなことを私ごときが小説家の文章に向かって言うのは、釈迦に説法というものではあろう。
 実際、石田氏もこの難点には気づいてはいるようで、言い訳じみた文を先の引用箇所の直後につけ加えているのだが、これが笑止である。笑いごとじゃないけど。

 そのせい[感情的な反応が書かれていないこと]で、ブログの文章が非常に硬質で詩のような作品になっていると言われているようですが、本物の詩人の場合は、豊かな感情がありながらそれをあえて抑制して表現しているのです。だから、硬質できれいなイメージになる。でも、彼女の場合は最初から豊かな感情が欠落しているので、詩のような硬質なイメージに見えているだけのことなんです。いかにも病気の人が書いたテキストという印象を受けました。
[強調は引用者による。[ ]内は引用者がおぎなった。]


 これほどの反吐の出るような文章を読んだのは久しぶりだ。
 「本物の詩人」ときましたか! この人は「テキスト」などという言葉を使っているくせに、結局持ち出すのは、「本物の詩人」と「最初から豊かな感情が欠落している」と決めつけられた少女という、なにか無前提に成立したことになっている2つの主語なのである。「本物の詩人」が書いたものは「あえて抑制」した意図的なものであり、少女の場合は「最初から豊かな感情が欠落している」のだと。
 くだんの少女は、はじめから「感情が欠落し」た存在として、つまり共感や理解の対象外・枠外に位置づけられている。むろん、私だって、彼女に対して共感したり理解したりすることが容易だとは思わない。そりゃあ、究極的には他者への理解や共感は不可能なのだろう。しかし、そのことの不可能性を認識することと、石田氏のように共感や理解しようという意思の枠外に他者の存在を締め出した上でなにごとかを語ることは、違うと思う。他者に対し、その人が「感情が欠落し」たことにして、たんなる「分析」の対象とみなすような、石田氏の語り口についてこそ、彼が少女に投げかけた決めつけの言葉が当てはまる。
「他者に対する共感とか、共感を通じて人と人がつながる情動の部分が全く欠け落ちているなと思いました」。
 この人は、この少女に対する「共感」の可能性をあらかじめみずから閉ざしたうえで彼女について語っているのであるから、彼女をここで石田氏の言う意味での「他者」とはみなしていないわけである。それはご本人の勝手だが、ならば彼女について語るべきではないだろう。
 それにしても「欠落」という語りのなかで試みられる「理解」とはなんだろうか。そんな石田氏の文章の暴力性は、下にリンクした保坂展人氏の語り方と対照すると明らかであると思う。


伊豆の国で起きたこと 2
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/a2b4ec3e42b40a13100a7def75a479e3