コピペと感想文

 以前、昔なつかしい夏休みの宿題の「読書感想文」について、こんな記事を書いたことがある。それで、このところ、「読書感想文+パクリ」といった語で検索して訪問される方がいる。冬休みも終わり、中高生が書きたくもない作文を書かされる、憂鬱な季節なのですね。残念ながら、お望みのものはここにない。
 そのときのエントリでも少し触れたが、感慨深く思うのは、今や、ネットで収集した素材の切り貼りで「感想文」をでっちあげることが可能だし、実際にそれをやっている人も多くいるらしいことだ。
 他人の文章をそのまま書き写して提出するのがよいことだとは思わないが、よそから探してきた素材で「作文」を組み立てるという発想が必ずしも悪いとも思わない。極論するならば、教育において「読書感想文」を課すなど、不毛かつ有害なのだから、とっととやめてしまえ、ということも言えなくもない。


 読書感想文コンクールのようなところで賞をとっている作文を読んで苦笑してしまうのは*1、どの感想文においても、読んだ本への言及の分量が少ない、あるいは実は本そのものについては主要な位置づけで語られていない、ということだ。そういったコンクールなどで求められているのは、自分の読んだ本について語ることではなくて、「私の経験」と「私の内面」を語ることなのだ。本は、あくまでもダシにすぎない。評価されるポイントは、記された書き手の経験が「率直」で、また、表出された内面が「偽りでない」と見える*2かどうか、なのだ。あと、称賛される感想文に欠かせないらしいのは、その読書を機に、「これまでの私」をどう振り返ったか、「これからの私」をどう変えたいのか、という要素である。
 最優秀賞に選ばれるような作品は、さすがにみごとに自然主義的な「告白」を行なっていたりする。今の世に島崎藤村あたりが生きていて彼らの作品を読んだら、舌を巻くんじゃないだろうか。え? これを書いたのが中学生だって? なんてこった。えらい時代になったもんだ。
 皮肉で言っているのではない。実際、読んでみると、びっくりするほどできのよい作品が多い、というのが私の偽らざる感想だ。
 私の子どものころを振り返ると、彼ら彼女らが体得している、「感想文」というものの書き方が、全然わからなかった。というのも、先生の「思ったことを、そのまま書くとよいよ」という言葉を真に受けていたからだ。おそらく、達者な読書感想文を書ける子どもは、「書く」という行為が「ありのままに内面を表出する」というような「自然」なことでありえないと理解しており、それが操作的・作為的な技術にほかならないことを熟知しているのだろう。そうでなければ、マヌケな教師をして「真実」と思わせるほどの立派な感想文を書ききることはできないはずだ。
 私に欠けていたのは、そこだったのだと思う。私は愚かにも、「ありのままの内面」に、書くにあたいする内容を探そうとした。そして、なにも見出せなかった。だから、読んだ本の筋をだらだらと書き連ねて提出した結果、教師には「ほかに何か感じたことはありませんか。それを書きましょう」などと朱を入れられたりもした。
 敵を欺くには、まず自分を欺かなければならない。それだけではない。なにより、敵を欺くには、敵より賢くあらねばならない。語られる「真実」や「内面」の仮構であることを自覚しながらも、それを仮構と受け取らない教師に向けて、あえて「真実」と「内面」を語らなければならないのだ。こうした高度に知的な操作が、「読書感想文」には要求されるのである。優秀な感想文を書く子は、決して「偽り」に鈍感なのではないと思う。くり返すが、マヌケなのは教師の方なのである。


 したがって、「作文+著作権フリー」などと検索して感想文をやっつけようという、少なくはない数の中高生がいるらしいことは、一面では悪くないことだと思う。たしかに、読書感想文なんぞに本気で取り組むのは、労力のムダかもしれない。ましてや、「思ったことを書け」などと強制されるのはたまらない。また、作文とは「自分」にとって外的な他者としての言葉を操作することにほかならないと捉えるのは、認識としては、正しいと言ってよいのだろう。語られる言葉の真実らしさや作者の偽らざる内面表出に価値を置くのは、リアリズム特有の「文学的」態度にすぎない。
 しかし、私自身は、いまだにそうやって割り切って文章を作ることができない。認識と手を動かすこととは別なのだ。自分の書きつけた文章をながめては、その「ウソくささ」に悶絶する。「思ってもないことを書きやがって」と。反対に、手を動かした結果、「思いもよらないこと」を書けてしまったことに興奮することも、まれにある。そんなことに興奮してささやかな満足を得てしまうのは、思ってもみなかった「自分」をそこに「発見」しているからだ。「ウソくささ」に悶絶するにせよ、思いがけない結果に興奮するにせよ、はからずも私はそこに「自分」の「真実」を探している。それは、何かを書くときに、少なくとも私にとって逃れようのない条件としてあるような気がする。
 だから、コピペで文章を作りあげてしまえるという感性は、うらやましくもあり、憎らしくも感じる。安易にでっちあげてんじゃねえぞ、と。
 また、コピペとまでいかなくとも、「日本人」などという立場にぼけっと突っ立って論壇風の語彙を散りばめさえすれば自動生成されるたぐいの文章を書く人は多くいるが、これには興味がない。というか、嫌いだ。そういう連中が決まり文句として言うのが「偽善」という罵倒語だ。そのくせ、そう言う人たちは、「正直おれは○○だと思う」といった語り口を平気でする。「正直」などという枕詞に何らかの価値があると思っているのだとすれば、それは救いがたく安直かつ無自覚にリアリズムの前提にあぐらをかいているということだ。
 おっと、つい興奮して話がそれた*3


 ともかく、語られたこと書かれたことの「ウソくささ」を嘲笑するのは簡単だが、だからといって容易にそこから逃れられるわけではないのだ。「ウソくささ」をあげつらう者こそ、「真実らしさ」を求めているものだからだ。

*1:ネットで読める。リンクしないけど。

*2:「見える」というのは、もちろん、あくまで「マヌケな教師や審査員にとってそう見える」ということだ。

*3:こういう書き方が、われながらいやらしい。「興奮して」などと言って、さも、はからずも今「本心」を吐露してしまったかのようにほのめかすのは、これやはり安直リアリズムのサンプルなり。