DURAN DURAN / WHITE LINES

 オモテ面をたどっていたはずがいつの間にかウラ面になり、気がつくとまたオモテに戻っている。こんなメビウスの輪の構造をしたリフについて。


 今日とりあげる、タイトルに示した曲は、1995年発表のアルバム "Thank You" に収録されているもの。このアルバムに収められているのは、1曲を除いてすべてカバー作品。White Lines は、Grandmaster & Melle Mel という人たちがオリジナルらしい。私はぜんぜん知らないんだけど、ヒップ・ホップの人たちのようだ。
 で、今回は、この曲のなかでも、リフだけに話の焦点を絞りたい。


 このリフはかなりキャッチーなのだけど、よく聴くとどうもヘンテコなのだ。AとCの2つのパワー・コード(5度和音)が素早く交互に切り替わるだけのギター・リフなのだけど、ためしに弾いてみようとすると、なかなか難しい。私は、これが弾けない。指使いが難しいわけではまったくない。どう弾けばよいのかわかっていても、頭が混乱する。というか身体がこれに適応できないのだ。といっても、聴くぶんには、ぜんぜん不快でも、難解でもない。むしろ、先に述べたようにキャッチーで、すげえかっこいいリフなのだ。
 そんなリフが、実際ギターをもってみると、超難解なのである。どう難解なのか、ということを、図示すると理解しやすくなるのではないか。そう思って作ってみたのが、以下の図。
 リフは、4小節でひとまとまり。4小節やったら1小節目に戻るという循環構成である。
 (1)〜(16)の数字は、各小節を4つに分けて番号をふったもの。16分音符が使われているので、(1)〜(16)をさらに4分割し、その16分ごとの単位で"A"とか"C"というふうにそれぞれコードを記した。"*"は休符。"-"の記号は前の音を伸ばすところ。たとえば、"C-"というのは、16分音符が2つぶん伸ばされているということ、つまりCの8分音符に相当する。

第1小節
No. ||(1) |(2) |(3) |(4) ||
code||ACCA|C-AC|-ACA|****||

第2小節
No. ||(5) |(6) |(7) |(8) ||
code||ACCA|C-AC|-ACA|****||

第3小節
No. ||(9) |(10)|(11)|(12)||
code||ACCA|C-AC|-AC-|ACAC||

第4小節
No. ||(13)|(14)|(15)|(16)||
code||-AC-|ACAC|-ACA|****||


 第2小節は第1小節を反復している。4つの小節をひとつのユニットとして組み立てる場合、通常ならば、第3〜4小節は、基本的に1〜2小節の型を踏襲することになろう。それは、作り手の作法というより、聴き手がそういうふうに聴こうとするものだからだ。つまり、第1小節、第2小節、と2度反復されたパターンは、3度4度と反復されるだろうと聴き手は予測する。作り手は、その予測にそのまま沿って同じパターンを当ててくることもあれば、あえて少しずらしてくることもあるが、いずれにしても、先に積み上げた文脈のうえでそうするのが普通だと思う。
 ところが、くだんのリフの場合、その積み上げた文脈をいったん破壊するということをやるわけである。
 まず、第1小節のコードの並びを見ていただきたい。1/16の単位3つぶんずつ区切って取り出してくると、次のように並ぶ。

"ACC/AC-/AC-/ACA"


 先ほど説明したように、"C-" はCの8分音符、すなわち1/16のC2つぶんの長さであるから、"C-" は "CC" と等価とみなすことができる。したがって、"AC-" と "ACC" は等価とみなせる。
 この見方に立つと、第1小節は、"ACC" が3回繰り返されたのち、"ACA" で締められるというかっこうになる。いま、「この見方に立つと」という限定的な書き方をしたけれど、実際、聴き手はこう聴く以外にない。私たちの耳は、規則的な反復がなされる場合、その反復されるかたまりを単位と認識して、音を再構成するようにできているからだ。
 私たち聴く側は、"ACC" という規則的な反復をみいだすことで、1/16×3 のひとつらなりを一単位として音を分節し、また再構成するように、感覚を条件づけられる。要するに、"ACC, ACC, ACC..." というふうに続くんだろうなあ、と待ちかまえて曲の先を聴くようにならされるということである。
 第2小節もまったく同じパターンが繰り返されるので、この条件づけはより強化される。その条件づけられた感覚を裏返しにかかるのが、第3〜4小節。この部分だけ、先の図を再掲する。

第3小節
No. ||(9) |(10)|(11)|(12)||
code||ACCA|C-AC|-AC-|ACAC||

第4小節
No. ||(13)|(14)|(15)|(16)||
code||-AC-|ACAC|-ACA|****||


 (9)〜(11)にかけては、第1〜2小節の "ACC" のパターンが踏襲されている。

"ACC/AC-/AC-/AC-"


 このパターンが、(12)の "ACA" をはさんで、反転されるのだ。(12)の末尾から(15)にかけて取り出すと以下のようになる。

"C-A/C-A/CAC/CAC/A**/**"


 2つ "C-A" が続いて始まっている点に注意されたい。たかだか2回続いているだけで、時間的にはきわめて短いのだけれど、この箇所が、このリフを印象深いものにしている決定的な要素であると考えられる。
 すでに第1〜2小節において条件付けられていた聴き手の耳は、"ACC" という "A" で始まり "C" で終わる単位の反復を待ちかまえている。しかし、これが、"C-A" という、"C" で始まり "A" で終わる単位に、ここで裏返っているのである。すでに述べたように、このリフはたった2つのコードの交互の切り替えからなっているわけだから、この転換は、文字どおり「裏返しになっている」「反転している」ように聴こえる。
 冒頭でこのリフを「メビウスの輪」にたとえたのは、このオモテがウラになるということに加えて、もうひとつ理由がある。いま示したところを、スラッシュ(/)の位置をひとつずつ右にずらしてみると、あーら不思議。

"C/-AC/-AC/ACC/ACA/***/*"


 さっき、いわば裏返る前に反復されていた、"ACC" のパターンがここで1度復活してあらわれ、"ACC/ACA/***"と閉じられているのである。この終わり方は、先の第1・2小節とまったく同じ。
 聴き手にとって、この最後の箇所は、「ウラ」なのか、それとも「オモテ」なのか、一義的に決定することが不可能な構造をしているのである。この決定不可能性は、メビウスの輪と相似形と言ってよいのではないかと思う。あるいは、だまし絵の、見ているうちに図と地が反転してくるように見えるやつのような決定不能性。
 このことを、いま私はスラッシュの位置をずらすという操作をへて示したのであるが、実際に音を聴く場合でも、図と地が反転するような不安定感、視座が定まらず揺れ動くような感覚を体感できるのではないかと思う。


 私は、こういうケッタイな曲を作ってしまうミュージシャンの「感性」とはどういうものなのだろうか、と思うのである。はたしてそれは、「感性」と呼ぶべきものなのだろうか、と。
 原曲を聴いていないのでそれについては何とも言えないのだが、DURAN DURAN のカバーにおいては、このリフはギターとベースで演奏されている。こんな変態リフを、ギターやベースを使って発想するというのは、ちょっと考えにくい。明らかに「感性」とか「身体」とか「自然」とかといったものに反するからだ。作曲者は打ち込みでリフを組み立てたのではないかという気はする。
 もっとも、ギターなどの手で直接演奏する楽器か、それとも打ち込みかという差異は、本質的なものではない。重要なのは、おそらくこのリフの発想には、「感性」や「身体」といったものからいったん離陸するプロセスが入りこんでいるはずで、そのプロセスはどうなっているのかということだ。


 ところで、昔、打ち込みで曲を作っている人から、どういうやり方をとっているのか、聞いたことがある。その人の方法論というのは、こういうものだった。
 すなわち、まずランダムに音を打ち込んでみる。つぎに、そうして打ち込んだ音を聴きながら、気持ちよいところを探し、ピックアップする。そうしてピックアップした要素を修正していく、と。その修正の過程では、もちろん「経験則」(という言葉を彼は使った)をたよりにすることになるのだけど、最初から「経験則」だけで曲を作るよりも、ランダムを取り込むプロセスを入れた方がうまくいくことが多いのだそうだ。
 ポピュラー音楽をいろいろ聴いていると、ひどい言い方になるけど、「真似ごと」感ただよう曲というのが、一方でおびただしい数ある。そういう曲というのは、「経験則」だけで作ってしまっているのだろうなあ、という気がする。そう言うだけの何の根拠もないんだけど。
 他方で、同じポピュラー音楽のなかにも、「経験則」とか既に与えられている「感性」とかからは、どうしたって発想できないだろう、と思わされる曲もけっこうある。WHITE LINES はそういう曲のひとつ。きわめて不自然で作為的な、「思考」とでも呼ぶべき操作の結果生み出された曲なのではないかと想像する。それは、あらかじめ組み立てられ、すでに学習可能になっている「理論」や「方法」の応用といったものではないだろう。既存の「感性」「身体」「理論」がまだ知らない領野を切り拓く、操作としての「思考」。


 そして、そうした操作をへていると思われる反面、ポピュラー音楽というのは、いわば耳あたりのよいもので、私たちはそれを「自然」に受け入れている。聴く側はわざわざそこにあえて働きかけることをしなくても、それは向こうからこっちにやって来て、「自然」に私たちを楽しませてくれる。
 しかし、そんな音楽を「自然」に感受している身体こそが、きわめて高度に構築された人工物なのではないだろうか。とすると、私たちが音楽を楽しんでいるとき、それを可能にしている条件は何なのだろうか。
 音楽を聴くのも作るのも、ほとんど「イカレテル」とか、「コワレテル」とか、形容すべきことではないかと思う。