エンターテイメント

 ガキンチョのころ、一時期プロレスを熱心に観ていたことがあった。それは本当に短いあいだだったので、覚えているレスラーと言えば、鶴田とか天竜とかブローディとかハンセンとかそれぐらいで、しかももうぼんやりとした記憶しか残っていない。スタン・ハンセンが左腕を高く上げて「ウォー!」と叫んでいる図や、ジャンボ鶴田が額から流血している映像の記憶がなんとなく頭に残っているだけだ。彼らは「全日」なのかな。団体の区別すらついてなかったわけだけど、とにかく、なんか熱心にテレビにかじりついて観戦していたということだけ覚えている。
 当時、私の小学校では「プロレスはガチンコか八百長か」という論争があった。自分がどちらの立場だったのか、またその論争に参加していたかどうかすら思い出せないが、たしかガチンコ派が多数を占め、「あれは八百長だよ」としたり顔で解説する少数派を激しく攻撃していたように思う。そんな論争を記憶しているくらいだから、やっぱり「八百長」なのかなあという多少の疑いを抱きながら観ていたのだと思う。私が熱心に観ている横から、親が「こんなの、お芝居なんだから」などと水をさすようなことを言っていたものだ。
 でも、しだいに私がごく短い期間のプロレス熱からさめていったのは、それが「八百長」であろうという「分別」がつくようになったからということではないように思う。なにぶん古い話で自分でもはっきりしていないのだけど、「こんなもの八百長じゃないか!」とプロレスに失望した記憶はない。かりに「分別」によって私が離れていったのだとするなら、私は「裏切られた」という失望をいだいたはずだと考えられる。しかし、そんな記憶はない。そもそも、ガチンコか八百長かの問題に決着をつける確証なんて、すくなくとも小学生だった自分には得られないわけだから、それも当たり前の話だ。
 だから、順序は逆で、私はプロレスへの興味を失ったのちに、プロレスは「八百長」、というか、むしろ「エンターテイメント」「ショー」「芝居」だというふうに理解するようになったのだと思われる。「エンターテイメント」とか「ショー」とかといった位置づけは、離れてしまった相手に対して隔たりを確認するための後付けのエクスキューズにすぎなかったのではないか、というのが私の仮説。
 そうして興味を失う前にもちえていた感覚、プロレスに没頭できていた頃の感覚というものは、そこから離れてしまった今となっては、けっして取り戻せないものだと思う。ある種の関心のもち方をやめてしまったときに、私にとってプロレスは「エンターテイメント」でしかないものとなった。
 もし「エンターテイメント」として捉えながらも、あえてそこに没頭してみせようとするならば、そこには奇妙な距離感が生じる。それはいわば「ネタ」と分かっていながらあえて傾倒してみせるという態度にも似たイヤらしさがあるように思う。そういう、「メタ意識」だかなんだか知らないが、中途半端にシニカルな一歩ひいたような態度は、バラエティ番組などでいやというほど見せられる。シニカルな芸人とシニカルな視聴者の共犯関係。それは「分別」なんかの問題ではない。たんに関心をもてなくなったということにすぎないのだと思う。プロレスそのものを楽しめていた頃には、それが「エンターテイメント」であるというイヤミったらしい留保など不要だったはずだ。