Jeff Beck / Brush With The Blues

 「屁理屈」「屁のかっぱ」「屁っぴり腰」などと屁は軽んじられておるが、まずもってわれわれは、屁の偉大さを認めなければならないのである。そう、放屁の屁である。ビバ・放屁音である。ブリット・ポップなのである。最後のは関係なかったけど。
 音楽が私たち人間にもたらす影響を、生理的な面のみに限ってみるならば、緊張と弛緩という、たった2つの要素にこれを還元できると言ってよいのではないかと思う。もちろん、音楽を鑑賞するという行為は、たんなる生理的な次元で完結することは少ないのであって、一般的には情緒的・想像的・物語的・知的・理念的・アティチュード的など、さまざまなレベルでわれわれは音楽を受け取っていると言うことができる。
 しかし、今日とりあげるのはジェフ・ベック大先生である。先生を、ロック・ギタリスト史上最強のテクニシャンのひとりと称することに、あまり異論は出ないのではないかと思われるが、先生がテクニシャン中のテクニシャンたるゆえんは、情緒性に依存せずとも聴衆を引き込める、そのけた外れの技量にあると思う。「喜」でもなく「怒」でもない。また、「愁」でもなければ「懐」でもない。「嘆」でも「悲」でも「憂」でも「荘」でもない。ただひたすら「快」、これである。極端に生理的な「快」に特化した演奏。


 で、今日の Brush With The Blues という曲であるが、単純に言ってしまえば、ここで先生は緊張感を高めては放屁してゆるめる、ということを立て続けにかましてくるわけである。
 これが、どれだけすごいことか。それを私は伝えたいばかりに深夜この駄文をものしているのであるが、やはり、屁のたとえで語ると理解しやすいのではないかと思う。
 時機を逸せず絶妙のタイミングで屁をひって場の緊張をやわらげる。それは、一発だけなら、さほど難しいことではない。新郎新婦ご入場の開扉直前に屁をこく。人から呼び止められたタイミングで、返事がわりに放屁する。葬式でひる。国歌斉唱の号令を合図に出す。会議が煮つまったところで鳴らす。ロマンティックに夜景を眺めながら発音する。振り向きざまにかます。などなど、しかるべき条件がすでに与えられているところで、時機をあやまたずに放屁することは、かならずしも難しくはない。
 そのとき、たった一発の放屁は聴衆に絶大なる快をもたらすであろうし、一発と言わず三発四発と連射が可能ならば、その連射がもたらす旋律は、さらなる快を人々に与えるであろう。
 しかし、である。三、四発ですまずに、十発二十発、それどころか、3分たっても4分たっても連射がやまぬ、となれば、まわりはドン引き、もはやシャレにならないであろう。「病院行け」と言われかねない。
 ところが、ジェフ・ベック先生は、なんと6分25秒もかまし続けるのである。曲は、ブルース調。コードはいわゆるブルース進行ではないものの、4つだけのコードで、14小節でひとまわりする構成。彼にしては、いたって単純な曲構成とブルースのリズムで、演奏もアドリブをガンガン入れている感じ。ちなみに、アルバム中、このトラックだけライブ音源。完璧主義者でライブ音源は出したがらない人らしいから、よほど自分でも満足のいった演奏なのかもしれない。


 屁の話に戻すと(しつこくてすみませぬ)、一発だけなら場における意外性で強いインパクトを与えることができても、連弾はキツイというのは、音のバリエーションの問題であろうと思う。いや、屁そのものは、強い破裂音からスカシ屁と言われるものまであり、また放屁中のごく短い時間のなかで微妙な音程やアクセントの変化を楽しめるものであるから、音のバリエーションという点でなかなか豊かなものであるのかもしれない。しかし、問題は、これをコントロールして自由自在にバリエーションを扱い音楽をかなでるのは、事実上不可能だということにある。
 それは、電気ギターでも同じことで、エフェクターやアンプの設定いかんで多様な音が出せるとは言っても、曲のなかで多様なニュアンスの音を使い分けるには、相当の熟練を要する。この点に関しては、ベック先生の右に出る人はまずいないんじゃないか。というか、私は知らない。しかも、先生はエフェクターなんぞ、ほとんど使わないのである。師が「ギミックはエフェクターで作るんじゃないぜ。プレイで作り出すんだぜ」と、どこかで発言なさっているのを読んだことがある。
 彼はピックを使わず指で弾く人なのだけど、基本的には指と弦のタッチの加減、その強弱や摩擦の度合、あるいは(よく分からないがおそらく)指のどの部位を弦にぶつけるか、といったところで、驚くほどバリエーション豊かな音を使い分けている。さらに、フィードバック奏法やスライドバーで音の硬軟にバリエーションが付加される、と。
 だから、出てくる音、出てくる音が、あきれるほど意外性に富んでいるわけである。で、そういう音色の面でのいわば「語彙」が度を越して豊かにあると、その演奏はどういうものになるか。曲が進むにつれてテンションが上がりまくり、「おら〜、行け行けどんどん!」とは、なりにくいのである。反対に、「ガツーン」と来そうなところで、新奇なる「プ〜」にはぐらかされるのだ、私たちは。しかも、その「プ〜」がまた豊富なものだから、さっきの「プ〜」と今回の「プ〜」は違う。そうやって意外性を何度も何度もおぼえさせられ、そのたびにはぐらかされ続けるわけである。
 もっとも、この曲でのベック先生の演奏は、はじめは選ぶようにゆっくりゆっくり音を入れていたのが、次第にその密度が高まっていくという構成になってはいる。つまり、だんだんと盛り上がっていくようになっている。だけれども、「プ〜」とやるわけですよ、偉大にして意外なる放屁を。笑うよ、ほんとに。


 ところで、そういう演奏であるからして、この曲はなまものなのだ。6年か7年くらい前に最初に聴いたときは、心底びっくりしたものだけど、回数をおって聴けば聴くほど、その意外性に慣らされていくのである。哀しいことに。