曲屁

 また屁の話か、と閉口なさる向きもあるやもしれません。以前、Jeff Beck 師と放屁をからめて論じたことがありました*1。本日、先だって逝去された杉浦日向子さんの本を読んでおりましたら、屁芸に関する驚愕すべき記述を見かけましたので、ここに報告する次第であります。




大江戸観光 (ちくま文庫)

大江戸観光 (ちくま文庫)



 少々長いのですが、おもしろいのでしばらくそのまま引用します。引用文中の[ ]内はルビです。

 江戸時代、代々語りつがれる曲屁の名人がおりました。
 霧降花咲男[きりふりはなさきおとこ](なんと優美な名前なんでしょう!)という江戸生まれの男で、後に曲屁福平と改名しています。
 彼の曲屁は、平賀源内先生の『放屁論』、恋川春町(江戸のベストセラー作家)の『芋太郎屁日記』をはじめ、数々の草子類に伝えられています。
 春町の「屁日記」中の誕生の場面がケッ作なので引用します。
「その時此子[このこ]、たらいの中にて天に指さし、尻に指さして、屁上屁下唯可屁糞尊[へんじょうへんがゆいがへくそん]と高らかに唱えける」
 なんと、屁の名人を釈尊とダブらせているコノ過激さ。江戸人はコワイ。
 曲屁の実況については、源内先生の『放屁論』に詳しく活写されています。少し長くなりますが引用してみます。
「天地に雷あり、人に屁あり。いかなれば彼男[かのおとこ]、昔より言い伝えし階子[はしご]屁(音階が序々に上がる屁)数珠屁(連発)は言うも更なり、
(以下音曲づくしとなる)砧、すががき、三番叟[さんばそう]、三ツ地、七草、祇園ばやし、(以下擬音)犬の吠声、鶏屁(コケコッコウに似た屁)、花火の響きは両国を欺き(ドンドンという重低音)、水車の音は淀川に擬す、(以下長唄道成寺、菊慈童、はうた(小唄)、めりやす(しんみりした音曲)、伊勢音頭、(以下浄瑠璃)一中、半中、豊後節、土佐、文弥、半太夫、外記、河東、大薩摩、義太夫節の長きことも、忠臣蔵、矢口渡(いずれも長い演目)は望み次第、一段ずつ三味線浄瑠璃に合わせ、比類なき名人出たり」
と、これですもん、アットーされますでしょうが。
 源内先生が自ら聴いたところによると、三番叟は「トッハヒョロヒョロヒッヒッヒッ」と聴こえたそうで、鶏のトキの声は「ブッブブウーブ」と歯切れ良く、水車に至っては「ブウブウ」放ちながらデングリ返し(前転)をして見せ「さながら水車の水勢に迫り、汲[くん]ではうつす風情あり」と感心しています。


 この霧降花咲男なる人物、師匠がいて口伝で継承したのではなく、自身一代の工夫のみでここまで芸を高めたのだとのこと。
 ちょっとにわかには信じがたい話ではあります。自在に旋律をつけられるというのがまず見事ですが、それどころか長い演目を演じきる持続力は驚くべきものです。
 そりゃありえないだろうとも思いますが、これは厳密には屁ではないのだそうな。すなわち、「外気を吸い込み、それを括約筋……を自在に、引き締めたり緩めたりすることにより音階をつくる」のだといいます。だから臭くないのだと。
 臭いか臭くないかはどうでもいいのだけど、気になるのはどうやって「外気を吸い込む」のかということであります。これは、口からではなく、尻から吸い込むということなんでしょうな。
 で、さっきから試しているのでございますが、どうも要領が分かりかねるのですよ。「入り口」、直截に申せば「穴」の開閉というのは、気持ちわからぬでもございません。しかし、空気を吸い込むためには、「内部の空間」を膨らまさねばなりません。原理的には、「内部の空間」を膨張させつつ、「入り口」を開放するということができれば、外気を吸い込むことは可能なはずであります。
 ところが、「内部の空間」を膨らませようとすると、いきおい「入り口」(括約筋と申すのですか*2)がリキんで入り口が閉じてしまって、空気が中に入っていきせん。
 そもそも「内部の空間」をどうやったら膨らませられるのか、分かりません。理屈から言えば、リキんでブッと空気を放出するときと反対方向の力を入れればよかろう、そこまでは理解できます。放出の反対が「吸い込む」ということなのだから、放屁の逆をやればよいのだ、と。けれども、その具体的なイメージが、身体感覚としてつかめないのであります。やはり齋藤孝先生もおっしゃるように、現代日本人は、繊細なる日本の伝統的身体感覚を喪失してしまったのでしょうか。
 途方に暮れております。安心して眠れません。僕はどうしたらよいのでしょうか。どなたか秘けつをご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報いただけるとありがたく存じます。