南極物語

 先日観たとある映画の上映前の予告編で、ウォルト・ディズニーがリメイクしたとかいう「南極物語」のお知らせが流れた。思わず失笑してしまった。近くの席の見知らぬ人も同時に吹き出しているのが聞こえた。
 ところが、僕は笑っておきながら、自分がなぜそこで笑ったのかよく分からなかった。その見知らぬ誰かが笑った理由もむろん分からないし、そもそも彼がその予告編とはまったく別のことで笑ったという可能性だって考えられる。だが、たまたまかもしれないけれど、私のほかにもうひとり吹き出した人がいたということで、そこに笑うに値する必然的理由が何かあったのは確かなのではないかという気がしてくる。だから、気になるのだ。僕はなぜ笑ったのかと。




 僕らはふだん笑うとき、たいがい理由なんか気にしないでそうしている。しかし、自分が笑っているときに他人が笑わないでいるのを見て、「僕はなぜ笑ったのだろうか」という自問をよびおこされることがある。反対に、他人が自分と同じように笑っている姿に、かえって「何がおかしいんだ」という違和感をおぼえることもある。
 予告編を見て笑った僕は、その自問を喚起する2つの条件が同時に重なったわけだ。すなわち、僕は笑ったけれど、ほかの大多数の人は笑っていない。そして、僕と同時にひとりだけ笑った人がいる。
 そういうわけで、自問せざるをえなかったのだけど、その場でその答えを得ることはできなかった。なかなか気持ちの悪い感覚である。




 なぜ僕は笑ったのか。
 ちょうど「事実にもとづいた真実の物語!」なんてテロップが流れたときに、笑いをこらえられなくなったんだけど、いま考えてみても、その文句や予告編の内容じたいに笑いの理由を見つけることはできない。元の作品は、たしか小学生のころ親に連れられて観た記憶があるのだけど、その記憶の中の何かと予告編の映像が化学変化をおこして笑いが生じたのかもしれない。
 「南極物語」については、ガキのころに観て、「なんか変な映画だなあ」とかすかな違和感をおぼえた記憶はある。その違和感を、現在から事後的にこじつけてみると、「文部省推薦の感動モノ巨編なのに実はポルノ」というギャップからきたものではないか、という気がする。
 僕自身、いくつかの猫写真ブログを巡回先に入れている猫好きなのだけど、その私から言わせてもらえば、猫写真を見て「にゃー、かわいい」などとつぶやいてしまうときの感情は、ポルノ鑑賞に共通するおもむきがないこともない。「かわいいかわいい」と鑑賞する側は、このとき絶対的に視る側に立っており、「視られている」あるいは「視られる可能性がある」という意識を完全に消去している。ペットとして飼われる動物は、飼い主にとってあくまでも受動的な対象だ。だから、「かわいい」んである。飼い主の自己投影を許さない他者としての意思や視線を動物に認めていたら、「かわいい」なんて言っていられないと思う。
 で、「南極物語」に話を戻すと、あれは観客の「犬がかわいい」という感情ぬきには成立しない作品だったと思う。そのわんこかわいさをポルノ的に鑑賞する側面と、大半の犬が無惨にもバッタバッタと死んでいき(悲し涙)、ああ、でもタロとジロは生きていたよ、がんばったんだあ(うれし涙)というベタな感動的展開が接ぎ合わされた作品が「南極物語」であった。それがなんとも不格好だなあ、と当時の僕が考えたわけはないけれど、そういうところにひとつ違和感の由来があったんじゃないかなと思う。がんばって生き抜こうという「意志」を教訓的に称揚する映画が、同時に受動的な「対象」を鑑賞するポルノでもあるというのは、笑えることである。
 そういうわけで、ディズニーの「南極物語」はぜひ観に行こうと思う。いや、やめとこうかな。