ヨイデナェ

 私ども蝦夷の言葉に「ナンジョダ?」というものがある。日本語の「どうですか」「いかがですか」という表現にあたる。状態を訊ねるときにもちいる。
 この表現が漢文由来だということを知ったのは、高校の漢文の授業でだった。「ナンジョ」とはすなわち「何如」の音読みなのだと。
 ちなみに、漢文において、「何如」と「如何」はともに「いかん」あるいは「いかに」と訓読するのだが、前者は「どんなだ」と状態・性質を問うとき、後者は「どうして」と方法や理由を問うとき、というふうに使い分けるんだそうである*1。私の郷里には「ナンジョダ?」という言葉があるので、この区別は高校生のころ苦なく覚えられた。
 それはともかく、ふだん「自然」に使っている言語の不透明さが、表記の問題をとおして意識させられることがある。同じ蝦夷の言葉に「ヨイデナェ」というものがあるのだが、これは日本語の「やっかいだ」「困難だ」に近い意味の語である。ここで勘のよいかたは、「ヨイデナェ」は「容易でない」じゃないのとお気づきになるかもしれない。まあ、そうなんである。
 しかし、「ヨイデナェ」イコール「容易でない」という等式が成立するのは、「容易」という漢語を学習してしまったのことだ。私が重要だと思うのは、その「容易」という熟語を知る前と後とでは、「ヨイデナェ」という言葉に対する発話者の意識が決定的に異なっているのではないかということである。「容易」を知る前にあっては、「ヨイデナェ」は「自然」に、つまり、あらためてその意味を問うまでもない自明なものとして発話されていたように思う。ところが、「容易」という熟語を知ってしまった後においては、「ヨイデナェ」は「容易でない」という語を媒介にして、すなわち「容易でない」の翻訳された言葉として意識されてしまう。
 ここにはある種の逆転というか倒錯がある。本来、私にとって先に与えられているのは母語としての「ヨイデナェ」であって、「容易でない」という日本語はその等価物として後から学習したものにすぎない。習得の順序としては、「ヨイデナェ」が先で、「容易でない」は後。にもかかわらず、その2つの言葉がイコールで結ばれてしまって以降、私の意識は、「容易でない」を参照項として「ヨイデナェ」を位置づけるということをせずにいられないのである。もはや媒介抜きに「ヨイデナェ」という言葉を発することはかなわなくなったのだ。
 私が郷里に帰って「ヨイデナェ」と発話するとき、直接「ヨイデナェ」という言葉が口から出てくるのではない。まず「容易でない」という日本語が意識にのぼり、しかるのちにそれを「ヨイデナェ」という「母語」に変換して、やっと「ヨイデナェ」と発音する、というふうに段階をふまねばならんのである*2。このとき、日本語とは、まるで交換の媒介としての貨幣のように働いているものである。
 まあ、そんなことをすべての言葉についてたえず意識的にやっていると気が狂うので、適当に忘れる。それを意識にのぼらせないために、私たちは発話されるものとしての「母語」と言語としての「日本語」を同一視する。自分の語っている言葉が、あたかも直接的・無媒介的であり、自分にとって自然な「母語=日本語」であるかのようにみなす。
 しかし、私は「ヨイデナェ」と発話してみるとき、「自然さ」からすでに疎外されてしか発話行為がありえないことを思い出させられる。「母語」はもはや純粋に内的なものではありえず、外的な「言語」に対する翻訳としてしか発せられないのである。母語の優位性・直接性などフィクションにすぎない。いたるところに亀裂が走っていやがる。めんどくせー。まったくヨイデナェ、だぜ。

*1:広辞苑』で「いかに」と引いてみても、出てくるのは「如何」のみで、「何如」は出てこない。ATOK がデフォルトで変換してくれるのも、「如何」のみ。

*2:もっともこれはいささか誇張した言い方ではある。「ヨイデナェ」と「容易でない」は、ニュアンスや使用される文脈がやや異なるのであって、後者に対してぴったり重なる翻訳語として前者が口をついて出るのではない。ただ、そこでのズレの感覚も含めて、「容易でない」という語の一瞬の想起ぬきには「ヨイデナェ」を発することが難しいという、何て言ったらよいんだろ、これ。一般論として言えることだと思われるのだけど、私たちが発話する場面で置かれている言語の体系(「ラング」というのかな)は単数の完結したものではなくって、その体系ののひび割れというか、すきまというか、が、何かを語ることを困難にしていると同時に語ることを可能にする大事な条件なんじゃないかなあという気が、僕にはする。なに言っているのかよく分からなくなってきたけど。