Manic Street Preachers / Comfort Comes

 もうすごいですよ、これは。かなり実験的な色合いの濃い作品であり、またそれが奇跡的に成功していると言えるんじゃないかな。
 音楽にかぎらず、創作をする人というのは、既成の「型」を壊しにかかろうとする欲望に絶え間なくかられるのではないかと思われる。そこでのひとつの戦略として、「型」に回収しきれないような過剰・ノイズ・異物といった要素を内部に持ち込むことによって、「型」を変形、破壊、ないしは脱臼させようという方法が考えられる。この場合、「型」の破壊や脱臼は、「型」から出発して行なわれることになろう。つまり、まず「型」というものを把握し、その「型」に対して何が親和的でまたそうでないかということを理解した上で、非親和的な要素をあえて内部に繰り込むのだから。
 したがって、こういう種類の「型破り」は、系譜的に位置づけることが理論的には可能なのだと言える。すなわち、その創作者が先行者の何を踏襲し、また何を踏襲せず、どんな新しい要素をもちこんだのか、という史的・系譜的な理解が、簡単ではないにしても、不可能でもないということだ。
 ところが、3枚目のアルバム("The Holy Bible" ASIN:B000666VKQ)を発表するあたりのマニックスというのは、そんな系譜的な位置づけがとうてい及びそうにない、史的に切断されていると言うほかないような独創性を発揮しているんじゃないかと思う。今日取り上げる"Comfort Comes"は、日本盤としてはその "The Holy Bible" の先行シングル「ファスター/P.C.P」(asin:B000026X68)のカップリング曲として1994年に発表されている*1
 この曲のすごさは、なんらかの「型」をぶっ壊しにかかることで新たな「型」を創出せしめているというより、あたかも無から創造したかのごとく「型」そのものが自立して立っているように見えることである。
 ギター・ベースのコードと歌のメロディとが完全にずれている。キーが合っていないわけだ。それは、「歌(メロディ)に対してコードがずれている」というのでも、反対に「コードに対して歌(メロディ)がずれている」というのでも、ない。一方が基準として定位されていて、その定位された基準から見たときに他方がずれている、というものではないのである。つまり、両者の関係に「主従」とか「中心/周縁」とかの関係を見ることはできない。ただ両者のあいだに亀裂が走っているだけ。互いによそよそしく、歌を入れ、また楽器を演奏しているという風なのである。
 で、「奇跡的」と私が最初に言ったのは、そういった断裂を含みながらも、この曲がひとつの秩序だった楽曲として強力に統合されているということである。では、その統合を構成する「主体」はいったい何なのか。この曲において、歌とコードのいずれも「中心」たりえていないことは、先ほど述べたとおりである。
 もちろん、ひとつ言えるのは、リズムと時間である。歌とコードが互いに背を向けているとはいっても、たんにめいめい勝手に音を鳴らしているのではなく、両者がリズムと同時性においてシンクロしているのは明らかなのだから、そのことによって聴き手にとって諸々の音の集合は外殻をもった「ひとつの曲」として担保されるわけだ。
 しかし、この曲はそれだけではない。ほかならぬ歌とコードが背反することによって引き出される、さらなる強力な統合力がある。2つを引き剥がすことで、同時にその2つが引き合う力が生じている。遠心力と求心力の関係。引きつ離れつ、離れつ引きつ。
 かのホッブズも言っている。
「統治への第一歩は、分断することである」
 というのはウソだけど。


こちらで試聴できるらしいです。
 ↓
http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Arch/ES/ManicStreetPreachers/download/d1.html
「らしい」と言ったのは、私の PC ではエラーが出ちゃってできなかったから。

*1:のちに、上の画像の「裏ベスト」に再録。