憎悪週間

 世の中には悪い行ないをした「悪い人」と悪い行ないをしなかった「善い人」がいて、「悪い人」に仲間として関わったことがあるだけでその人も「悪い人」なのであり、しかもその「悪い人」に関わった人に関わった人もまた「悪い人」であって、したがって俺たち「善い人」に責められて当然だ、と考えているかのようにふるまっている人を、このところたくさん見かける。気が滅入る。これら「善い人」を自認する人たちは、たかだか今までに悪い行ないをたまたましなかった(と本人が思っている)だけなのに、どうしてかくも偉そうにふるまうことができるんだろうか。
 思えば地下鉄サリン事件後においても、マスメディアにおいて似たような狂騒が繰りひろげられていたのを思い出す。あれから11年たった現在、同様の「祭り」がネットで反復されているかのようで、心底うんざりする。
 まさにこれはある種の「祭り」にほかならないよ。任意の対象に「悪」を投影し、そうして投影された「悪」を攻撃することによって、自分らは純粋なる「善」の地位を獲得する。そういう善悪の切り分けによる秩序回復の儀式は、やってて気持ちいいのは分かるが、やりたいんならゲームなり物語なりフィクションとしてやれよ、現実に持ち込むな、と思う。生身の人間を傷つけるような形でやるのは、このうえなく下品でみっともないことだ、と思う。


 ぼかした書き方をしようと思ったけれど、何の話をしているかというと id:matsunaga さんの「カミングアウト」*1をめぐっての騒動のことである。トラックバックも送ることにします。
 いま松永氏を非難している人たちを駆り立てているのは何なのだろうか。彼らの多くは、その内的な動機を語らない。そこを内省してみたりしないんだろうか。
 松永氏自身、次のように困惑を表現している。




オウム・アレフ(アーレフ)の物語
http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20060320

 ましてや、被害者でもなく、その直接の関係者でもない人たちから、なぜ、あるいはどれだけ罵られ続けなければならないのか。それもわからない。まるっきりわからない。これは自分の思考の範囲を超えている。超えてはいるが、そのとき教団にいた、あるいはその後の教団にいたということで、背負わなければならないものが大きいことだけはわかる。


 困惑はもっともだと思う。氏が「わからない」と言うことが、私にもわからない。なぜなら、氏を非難する側の人たちの多くは、なぜ自身がかくも罵らずにいられないのか、自分の言葉で語ってくれないからだ。
 ただ、以下に引用する dozre さんの文章は、私には興味深かった。dozre さんは、上の松永さんの言葉を引用し、「納得できない部分もある」と言う。




怒頭流のそれが俺のジャスティス!m9っ`Д´)
http://d.hatena.ne.jp/dozre/20060321#p2

 松永氏はサリンテロが誰にも降りかかる可能性があるということをどうして想像できないのか。誰もが被害者・犠牲者になる可能性があった。そうした想像力があるのであれば上のような発言は出てこない。故に松永氏は脱会してなお、今だにオウムに囚われているのだと指弾されるのだ。
 あの時、日本にいる誰もが被害者となる可能性があり、そしてその後も第二・第三のサリン・テロに国民が恐怖したことを知るべきだ。オウムの逃亡犯が逃げ回っている今、事件はまだ終わっていない。そしていつまた、新たなテロによって犠牲者が出るかも分からない状況だと言える。


 dozre さんは、いみじくも「想像力」と言っている。しかし、私が分からないのは、その「想像力」が、なぜ「誰もが被害者・犠牲者になる可能性があった」ことに向かう一方で、「誰もが加害者になる可能性」や「たまたま所属したグループが自分個人の意図に反して加害者になる可能性」には向かわないのか、ということだ。
 これは皮肉でなく言うのだが、自分がテロに巻き込まれる可能性にリアリティを持てるのは、たいした想像力だと思う。私が鈍感なだけかな。確率で言うならば、車にひかれたり海水浴でおぼれたりして死ぬ確率よりもはるかに低い。
 しかし、多くの人は、想像力豊かにテロの恐怖を口にする。その「想像力」を疑ってかかるべきではないのかと私は思う。その「想像力」が何に由来するのか、と。私らもまた、おどらされているのではないか。


 私自身のことを振り返ってみると、11年前のオウムの犯行は、正視し難いものであった。もちろん、被害にあった人たちが担架で運ばれていく映像の悲惨さもそうだった。しかし、のちにオウムの内情が──大げさに誇張されていたにせよ──報道されたときにこそ、目をそむけたい気持ちが強く起こった。
 犯行の経緯は別にしても、ある種の「オカルト」への志向は、私にとって無縁ではなかったからだ。よく分かることだと思った。私はとりたてて傾倒することはなかったが、80年代のサブカルをそこそこに浴びた自分にとって「ハルマゲドン」やら「超能力」やらに傾倒する心理は理解できると思った。そのうえ、ある種の閉じられたコミュニティへの憧憬も、私にとって知らないものではなかった。「私が加害者のひとりとしてそこにいたかもしれない」という可能性をはっきり意識したわけではないけれど、彼らが「一般市民」の理解のおよばない「狂信者」であると、自分から切断することはできなかった。
 私の個人的な事情にすぎないにせよ、そういうことがあってか、私は、11年前のマスコミの狂騒にも、また今回の松永氏をめぐる一件にも、オウムなるものから目をそらすための心理的な防衛をみてしまう。間違っているかもしれないけれど。
 松永氏の文章はしばしば「わかりやすい」「読みやすい」と評されてきた。私もそう思う。その「よくわかる」文章の書き手である松永氏がオウムにかつて所属していたという事実に、氏を非難する人たちの恐怖の一端があるのではないだろうか。自身のうちから「まがまがしき者」として排除しようとする他者が、理性的で話のよくわかる隣人であってはならないのだから。私の勝手な解釈、というか想像ですけどね。
 何にせよ、事件が二度とくり返されないために松永氏の「告白」をいかそうとするのであれば、それを他人事として読むべきではないと思うんだけどね、私は。

*1:というより、「不当なプライバシー暴露と中傷によってカミングアウトせざるをえない状況に追い込まれた」と言うべきなのでしょう、むしろ。