昨日の記事について補足

怒頭流のそれが俺の**ジャスティス!m9っ`Д´)

http://d.hatena.ne.jp/dozre/20060321#p3


 dozre さん、丁寧なご応答ありがとうございます。読ませていただきました。
 私の書き方がまずかったことがあり、充分に私の考えが伝わらなかったところもあります。ただ、私の側からのまとまった返事は、dozre さんの文章およびご紹介いただいたリンク先の文章をきちんと読んでから、日をあらためて行なわせてください。勝手ながら、今は必要な時間をとれないので、よろしければお待ちください。遅くとも週末までには、返答できると思います。
 今日のところは、前エントリで充分に説明をつくしていなかった点について、ひとつだけ補足させていただきます。

 dozre さんは私の議論に対し、「時が時なら誰だってもオウム信者になってテロを実行していたかも知れないのだから、松永氏を批判するべきではないというのだろうか」というふうに、疑念を呈されているわけですが、私が述べたのはそういうことではありません。
 前半の「時が時なら誰だってもオウム信者になってテロを実行していたかも知れない」については後日書きます。今回は、その後ろの「松永氏を批判するべきではないというのだろうか」というご疑問について説明させていただきます。
 前エントリで「批判」という語を使わず、「責める」「非難」「攻撃」という言葉を用いました。その意図をきちんとと説明しなかったことと、「非難」等の語の必要な定義を欠いていたことのため、論旨が不明瞭になってしまったと思います。本エントリでも、「批判」という言葉はきわめて意味が広く、誤解の余地が大きいので避けることにします。


 私は問題を2つに分ける必要があると考えています。「責任の追及」の問題と、「原因の究明」の問題です。
 先のエントリでの私の考え方の枠組みとしてあったのは、こういうものです。すなわち、松永さんに関して、後者はともかくとして前者を問うことはできないのであって、そこを問うのは不当だし不条理だということ。
 もちろん、坂本一家殺害と松本・地下鉄両サリン事件の首謀者ならびに実行者は、厳正に裁かれ責任を追及されるべきだと考えます。責任が発生するのは、意図的・意識的に行なわれた犯罪に対してであって、彼らがその要件をみたす以上、追及がなされるべきでしょう。
 しかし、松永さんはそもそも犯罪者じゃないですよ。坂本一家の件・両サリン事件などの教団の犯行を指揮したわけでも実行したわけでもない、少なくともそうした証拠はないのでしょう。氏が教団内の仕事をこなすことで教団の犯罪を「結果的に支援」したことになるのだと言う人がいるかもしれませんが、知らなかったことについて、どんな「責任」を問えるのでしょうか。法的にはむろんのこと、道義的にも他者から追及されるべき「責任」が存在するとは思えない、というのが私の立場です。
 ただし、ここでもうひとつの問題をたてることができます。自身の関与した、あるいは選択した教団がどうして犯罪をおかす組織へと変貌していったのかということです。つまり、「原因」の問題。再発防止という観点からは、こちらの方が、いかに「責任」を追及するかということよりも重要かもしれません。
 しかし、この「原因」というものは、個人や団体の「責任」を問う立場からは、充分に究明できないように思います。それは特定の「誰か」のせいにしてすむ問題ではないのだから。より大きな文脈で考えるしかありません。教団の組織のあり方、教義、のみならず教団とそれをとりまく社会の関係(排除や受容)、もっと広くとればオウムという教団がどうして入信者を魅了できたのか、また彼らが一般社会で生きづらさを感じていたのだとすればそれは何か、などなど。たとえば、「なぜ当時の日本社会がオウムを暴走させてしまったのか」という問いを立てることだって、むろんこれで全てが解けるわけでないにせよ、可能だし、また必要だと思います。これは単純に「誰か」に責を負わせられるものでないし、そうすることは不毛なことに思います。教団をとりまく社会の条件はもちろんのこと、組織や教義にしても完全に計画的・意識的・自覚的に設計されるものではないからです。このように、事件の「原因」は、個々人の意思を越えた、その思い通りにならない要素を多々含んでいます。それは事後的に個々人の意思のレベルを越えた文脈で解明されるよりほかありません。
 誤解のないように言い添えておくと、私はなにも一般論として「凶悪な犯罪に至る要因にも、たとえば貧困とか差別とかの社会的なものが様々に関係しているのだから、いっさい犯罪者の責任を追及すべきでない」と言いたいわけではありません。殺人や暴行といった罪は、原則として責任を問われ社会的な制裁を課されねばならないのでしょう。じつはこの考え方に心底納得できるわけではないのですが、認めます。
 ただ、「責任の追及」と「原因の究明」は同時には両立しない──私のオリジナルの考えではなく請け売りですが──と考えます。差別を受けただの、子ども時代の親の育て方がどうだっただのの「原因」(無限の環境的な要因が含まれる)をうんぬんしていては、「いろいろ事情があったんだからしょうがないよね」ということになってしまって、個人の「責任」は問えない。反対に、「誰か」特定の個人あるいは複数人の「責任」を追及することで問題を「解決」させてしまうならば、本来的には環境的なものも含めて多様な「原因」は充分に明らかにできない。
 で、松永さんに関しては、先に述べた理由から他者が「責任」を問うことはできないし、それでも「責任」を問おうと彼を責めるのであれば、そのことは不毛だと考えます。
 他方、なぜ、オウムという組織があのような凶行におよんだのかという「原因」を、松永氏が内在的に明らかにしようとしているのであれば、そのこと自体が敬意にあたいすると私は考えます。しかし、かりに、氏がそうしない、もしくは充分にできていないとしても、そのことが「不誠実」の証しになるわけではないとも考えます。そもそもそれは自発的にしか行ないえないことであるし、くり返しますが他者から追及されるような「責任」が存在しない(と私は考える)からであります。
 以上が、前の記事を書いた私の考え方の枠組みです。
 先に私は、この件について第三者が「責任」を問うのは不毛だと書きましたが、先のエントリは、その不毛なことを、不毛にもかかわらず、わざわざやる人たちの動機が何なのかということについて、(杜撰と言われるかもしれませんが)仮説を展開したものです。それについては、dozre さんの批判を受け入れるべき箇所もあるとは思いますが、その点を含めて今度書くつもりです。