松永氏の一件について(つづき)

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20060321#p1
および
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20060322#p1
のつづきです。


 遅くても週末までには返答すると言っていたものの、所用が重なって延び延びになってしまいました。


 まず、前回の記事で説明した私の考えの要点を、くり返し述べておきます。

  • 松永氏がオウムに所属していたとはいえ、彼がその組織犯罪に関与していたとはみなせない。
  • したがって、「責任」という点で氏が追及されるべきものは存在しないのではないか。


 上記2点目について、dozre 氏から応答をいただいたので、そこから考えてみたいと思います。


http://d.hatena.ne.jp/dozre/20060323#p1

 犯罪者じゃないから責められるべきではないというのは一つ間違いだと思います。確かに松永氏はそれらのテロルには関与していないかもしれません。が、そのテロルに関わった反社会的組織に在籍していたというのは事実としてあるわけで。
やっぱりオウムが怖いというのは普通の感覚として当たり前ですよ。その感覚が異常だのマスコミに踊らされているだのと言葉で飾り立てても、人として組織暴力が怖いと思うのは当然です。
それと、松永氏に批判が集中しているのはオウムにいたことやそれに関する法的な責任云々ではないんですよ。氏の今までのやり方と今もなお、過去にオウムにいたことを向き合えないでいる姿勢ではないでしょうか。


 ここに、私としてはいささか腑に落ちないところがあるのです。
 もし、dozre さんやほかの松永さんに懐疑的な人が

  • 過去にオウムにいたことと松永氏が向き合えていないと判断したうえで
  • したがって、松永氏の書くもの、あるいは物書きとしての松永氏を信用できない

とおっしゃるのであれば、理解はできます。ある書き手がどういう経歴を持ち、またその経歴に対してどのように認識しているのかという点が、読者にとってその書き手や書かれた文章を判断するための材料のひとつになること自体は、私は否定しません。だから、読者としての「信用」の点において、松永氏のいま書かれている文章に疑念を発するのであれば、その判断に対して松永氏でない私が言うべきことは何もありません。ですから、もちろん「批判するな」とは私は言いません。
 しかし、「オウムが怖い」という感覚が、この松永氏の「姿勢」を批判する文脈で挙げられる理由が理解しがたいのです。私は警察・公安からすでに徹底的に捜査され監視下に置かれているオウム(アーレフ)が言われるほど危険だとは思いませんけれど、それはとりあえず措きます。一般論として、目的のために暴力を正当化するような組織は、何であれ怖いものだと私も思います。
 問題を矮小化しているとまた言われるかもしれませんが、たしかに私もたとえば暴力団は怖い。構成員でない相手に「ワシの知り合いには組の者がおってなあ」などと関与をほのめかされただけでも、脅威と感じるでしょう。こういった場合であれば、「反社会的組織」への在籍ないし関与が問題にされるのは分かります。組織との関係自体が現実的な脅威と言いうるのだから。
 けれども、松永氏の件とオウムの脅威とは、論理的にも感覚的にもかならずしも結びつかないのではないでしょうか。かりに万が一、松永氏が教団の意を受けて執筆活動をしたとしても、それが脅威と言えるほどの害をもたらしうる可能性は考えにくいからです。少なくとも既に経歴を暴露されたライター・ブロガーとしての松永氏の文章が、今後懸念されうる組織的な犯罪行為に対して、その助長や煽動や正当化に貢献しうる可能性は、ゼロに等しいと言ってよいのではないでしょうか。
 つまり、松永氏の発言*1と「オウムの脅威」とは、無関係ではないのかということです。経歴が明かされようが明かされまいが、また彼の過去に向きあう姿勢がどうであれ、ひとりの書き手でしかない松永氏が危険だとは考えがたいのではないでしょうか。
 とすると、なぜ松永氏批判において、氏の言論に直結するとは思えない「オウムの脅威」が、ことさらに強調されねばならないのか、という点が疑問に思うわけです。
 私は最初のエントリで、「誰もが被害者・犠牲者になる可能性」に言及した dozre さんに向かってこう書きました。

 これは皮肉でなく言うのだが、自分がテロに巻き込まれる可能性にリアリティを持てるのは、たいした想像力だと思う。私が鈍感なだけかな。確率で言うならば、車にひかれたり海水浴でおぼれたりして死ぬ確率よりもはるかに低い。
 しかし、多くの人は、想像力豊かにテロの恐怖を口にする。その「想像力」を疑ってかかるべきではないのかと私は思う。その「想像力」が何に由来するのか、と。私らもまた、おどらされているのではないか。


 たしかに、今読み返してこれは大変に失礼な書き方だったと思いますし、「確率」を持ち出したのは dozre さんに「矮小化」と批判されたとおり不用意でした。また、無意味に挑発的であったと反省します。すみませんでした。
 ただ、その「想像力」の由来はやはり吟味されるべきだと思うのです。
 もちろん、松永氏の姿勢を批判する人の内面を私は知りえませんが、その批判を正当化する手段として、教団による「テロの恐怖」が恣意的に持ち出されているのではないかという疑念が払拭できないのです。つまり、実質的にはとるにたらない松永氏の「脅威」を誇張するために、「おそるべきオウム」というイメージが利用されているのではないかということです。
 というのも、くり返しますが、「攻撃的」とされる点も含めて松永氏個人の言論が、組織としての「オウムの脅威」とどう結びつくのかという過程が不可解だからです。このことは、別の言い方をすれば、「オウムの脅威」に対処しようとするならば、教団に対する監視なり無害化するための対話なりの方策を継続すればよいのであって、松永氏個人の「姿勢」を問題にしなければならない必然性はないのではないかということです。


 で、ひとつ前の私のエントリと関連づけますと、問われるべきなのは、松永氏の「責任」ではなく、事件の「原因」なのだということを私は考えます。それがオウム(元)信者のみの問題でない、すなわち「他人事でない」と私が考えるのは、ほとんどの(元)信者にとって、あの凶行が意図せざるものだったろうという点は明らかに信じられるからです。
 そして、私が「誰もが加害者になりうる」と言ったのは、「だから、誰にも批判する資格などない」と言うためではありません。また、私が「加害者になる可能性」を dozre さんの言う「被害者になる可能性」と不用意に対照させてしまったために、誤解を生じさせてしまったかもしれませんが、「あなた自身加害者になる可能性」も「想像せよ」といった要求や問責をするつもりもありませんでした。
 ただ、意図せずして暴力に関与することは誰にでも起こりうることであり、だからこそ、これは「なぜそうなってしまったのか」の問題なのではないかと思うわけです。
 ところで、私は松永氏を「擁護している」と見られているらしく(2チャンネルなんかにもそう書かれていた)、まあそう見られてもいいのだけど、そのつもりはあまりなかったです。だいいち、結果的に「擁護」になるかどうか知らないし、そもそも「擁護しなければならない問題」の所在自体を疑っているわけだから。ただし、そうは言っても、松永氏の以下の発言は、各所で問題にされているようだけれど、むしろこの一点については微力ながら擁護したいと思っています。ちょっと長いですが引用します。


http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20060320#p1

 事件と自分を結びつけるためには、あくまでも論理的に考えて、理屈として納得する以外にない。自分が教団のため、自分自身の功徳のため、自分自身の魂の成長のために努力してやってきたことが教団を支え、その中からサリンなどが作られ、犯行が行われた――とたどらないと、自分と事件は結びつかないのだ。だが、自分の意図と違った使われ方をしたというところで当惑してしまう。
 だから、そこで結論はどうしても一足飛びになってしまう。被害者への感情移入と同情に基づいて「連帯責任で私も悪うございました」と、何が悪いかわからないがとにかくあのとき教団にいたことが悪かったと頭を下げる道。「あんな教祖が悪い。だまされた。あいつらは許せない」とあしざまに罵って被害者としての立場を強調する道。
 どちらも私の心の中ではしっくりこない。どちらも自分の心情には合わない。もちろん、自分が被害者、あるいはその親族や親しい人間だったとしたら、教団全体を許せないだろうし、「あいつらがのうのうと生きている」と言われたら腹が立つどころでは済まないだろう。だから、私が社会的に生きていること自体が許せないと被害者の方や遺族の方に詰め寄られたら、それは理解できる。殴られようが何だろうが、それは当然の仕打ちだろう。だが、実際にはそんなことが望まれているのではないようにも思う。重い軽いは別にして被害者、あるいは親しい関係にあったという人にとって、私は仇の一人だというのはよくわかるのだ。
 それはわかるのだが、じゃあ私はどれだけの罪を背負わなければならないのか。それは正直いってよくわからない。あるいは、何がどれだけできるのか。自分にできることは微々たるものでしかない。
 ましてや、被害者でもなく、その直接の関係者でもない人たちから、なぜ、あるいはどれだけ罵られ続けなければならないのか。それもわからない。まるっきりわからない。これは自分の思考の範囲を超えている。超えてはいるが、そのとき教団にいた、あるいはその後の教団にいたということで、背負わなければならないものが大きいことだけはわかる。


 一部の人は、彼らの望むほど反省や恭順の態度を松永氏がみせないことに不満をおぼえているようですが、むしろそうした安直な道を断っている点をこそ私は支持できると思います。「論理的に考え」ることが「事件と自分を結びつけるため」の欠かせない条件であるのは、松永氏のみならず、オウムの外部にいる「私たち」にとってもそうだと考えるからです。もし、オウムに関わった個々人の性向や意図の「邪悪さ」の問題にするなら、彼らと分かち合う言葉(=論理)は要らず、ただ責め立てればよい。しかし、そうした性向・意図のみに帰せないものとして問題をとらえようとするなら、「論理的に考え」るほかないのだと私は思います。誰もがそう考えなければならないとは言わないけれど。


 とりあえず以上です。長文にて失礼しました。

*1:そこに「攻撃的な言動」が含まれるという指摘が正しいとしても