黙読

心という不思議―何をやっても癒されない (角川文庫)

心という不思議―何をやっても癒されない (角川文庫)


 精神科医の著者の手になる上記エッセイ集におもしろい記述があったのでメモ。

 確か明治時代あたりまでは、本を読むのに「黙読」は例外で、「音読」が普通であったと教えられたことがある。音読をすると、自分の声を自分で聞きながら読書を進めていくことになる。
 もしかすると、黙読という習慣が幻聴の出現を容易にしたのではないか、と思いついたことがあった。音読と異なり、黙読はいわば頭の中に声を閉じこめる作用をする。そうした習慣の延長として、自分の思考が他人の声に化すという「幻聴」の素地が形づくられていったのではないかと考えたのである。
(「プレスリーが日本語で話しかけてくる」97頁)


 もはや、黙読という行為をまだ体得していなかったころのことを想起するのは難しい。しかし、黙読が私たちの「頭の中」のありようを決定的に変えてしまう契機としてあったんだろうな、という気はする。「幻聴」とまでいかなくても、頭の中に自分のものとも他人のものともつかない過剰な「声」がうずまいている状態を、私はあたりまえのものとして受け入れている。昔の人、あるいは現代でも、子どもをふくめて黙読の習慣をもたない人の「頭の中」はどうなっているのだろうか。それは、私らとは決定的に異なるのかもしれない、などと想像してみたりする。
 そういえば、昔の人は漢文をどう読んでいたのだろうか。もちろん、初学者は返り点をふって声に出して読んだのだろう。しかし、読み書きに習熟した知識人も音読していたのだろうか。当然、彼らは返り点やふりがななどつけずに白文を前から後ろに読んでいたのだろうけれど、そのとき彼らの頭の中で「音」が「意味」を媒介するものとして鳴っていたのだろうか、という点は気になる。
 そこに「音」はなかった、という可能性も考えられるのではないだろうか。形象としての漢字が直接的に「意味」に接続されていれば、「音」は必要ないとも言えるわけだ。
 そう考えると、「黙読」を2つの類型*1に分けることができると思う。頭の中で「音」が鳴っている黙読と、「音」が鳴っていない黙読。アカデミックな論文などは、後者の側面に大きく傾いた読み方がされると思う。いわば、グラフや表を読みとるように、「音」を媒介せず、観念がダイレクトに頭に飛び込んでくるという読書。
 しかし、そういう読み方の絶対にできないテキストがあって、それは小説やコミックである。それらは、「音」を媒介にして黙読されるテクストである。で、「音」を媒介にするけれども黙読されるのだという点を、私は強調したい。いや、べつに強調するほどのことでもないんだけどね。
 というのも、ちょっと前に「声に出して日本語を読もうぜ」ブームというのがあって、私はそれにいたく違和感をおぼえたからなのであった。まあ、教育の現場で音読の効用を再評価しましょうみたいな総論には、別段文句はない、というかよく知らないから何とも言えないのだけど、そういう教育現場に児童や生徒として自分が居あわせたら、とても居心地のわるい思いをしただろうなと、そう思うのである。
 たとえば、次の一節なども、音読しましょうとすすめられるのだけど。

どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
宮沢賢治風の又三郎』)


 そりゃあ、たしかに音読して楽しい人もいるのかもしれませんよ。それに音読して楽しめる人が「健康」なんでしょうよ。
 でも、俺はまっぴらごめんだね。声に出して「どっどど どどうど」と読めだと? イヤだね。余計なお世話だよ。それも他人と声を合わせて音読するなんざ、気持ち悪くてかなわんぜよ。
 というガキも一定数いるんじゃないのかなあ、と思う。
 私は、大人になってからはほとんど読むことがなくなったけれど、宮沢賢治の作品にはちょっとした思い入れはある。彼の作品を小学生のときにむさぼるように読んだのが、私にとって「音」を媒介にした「黙読」の原体験として記憶されている。
 私は確信をもってそう考えるのだけど、その作品は黙読されるべきテクストだと思う。少なくとも私にとって、「どっどど どどうど」といった擬音語も、頭の中で鳴っていることが重要な点なのである。そういうふうにして、頭の中を自分のものとも他人のものとも知れぬ「声」や「音」でいっぱいにして生きている現在の自分が「幸せ」なのかそうでないのか、それは判断できないことではある。けれども、その頭の中の「声」や「音」を奪われた自分のありようというのは、もはや想像することすら難しい。その程度には重要だ。




 ところで、音楽もまた「黙読」されうる。歌ったり踊ったり楽器を演奏したりといった身体の運動をぬきにして音楽を聴取するという経験、これは歴史的に特異なものと言ってよいだろう。個室やオーディオ機器、あるいは静粛を求められるコンサートホールといった条件なしには、そのような聴取スタイルは不可能だからである。私たちが自室で音楽を聴くとき、自室でなくとも電車の中などでひとりヘッドフォンで音楽を聴くとき、それは読書における「黙読」にあたる行為をなしていると言えるのではないか。
 この聴取スタイルは、読書がそうであるように、人間を個人化する。固有な存在としての自分の頭の中で音が鳴っている。ヘッドフォンを外しても、音は鳴り続ける。でも、私らはそこで歌い出したり踊り出したりはしない。黙々と音だけが頭の中で鳴り続ける。
 中学のとき音楽の授業が苦痛だった。音楽の教師はファシストだった。ファシストは、合唱において声を充分に出さない者をののしり、ビンタをくらわせ、蹴りを入れた。「おまえ、やる気あるのか?」と。間歇的にファシストの怒声が響き渡るほかは、教室は恐怖で静まりかえっていた。私の頭の中では、「歌えあおーいそーらにー(そらにー)」というコーラスがしらじらしく鳴っていた。空は見えなかった。
 かつてそれが私にとっての音楽だったし、今もそうである。

*1:現実の読書の経験を、純粋に「どちらか」に振り分けることは難しいのだろうけど。