男は意味不明なことを話しているという、という、という、という……

 動機不明な事件を報道する新聞記事などによく見かけるのが、「男は取り調べに対し、『○△□』などと意味不明なことを語っているという」という表現。私は、前からこれがどうにも気色悪くってしかたがないのである。
 たとえば、asahi.com神戸空港の駐機場に四輪駆動車が侵入 フェンス倒すという記事。

 調べでは、同市内に住む無職の男(28)で、「沖縄に行きたかった」など、意味不明なことを話しているという。男は四輪駆動車で、ターミナルビル西側の2カ所のフェンスを突き破って侵入し、急停止を繰り返しながら、約200メートルにわたってジグザグに走行した後、停車して車から降りた。フェンスに設けられたセンサーが警報を発したため、空港職員が侵入を見つけ、2台の車で先回りし、男に話を聴いたところ、「どうやって帰ったらいいんや」と話したという。


 こういうのを読むと、口の中がもわもわっと痒む*1感じがする。
 「意味不明」と言えばこの記事も立派に「意味不明」ではあって、というのも、この侵入男の発言に対する「意味不明」という評価が、男を逮捕した警察によるものなのか、それとも警察発表を書き写した記者によるものなのか、記事の文章からは判然としないからである。
 新聞記事というのは、「……という」という伝聞の形で書かれるのであれ、建前上、徹底的に「事実」を主観抜きに記述するスタイルをとっている。だから、そこにふと書き手の「肉声」というか「顔」というか、そのようなものが現われるとぎょっとしてしまう、ということはあるかもしれない。
 しかも、ここにはそうやって「意味不明」と語っているのはいったい誰なのか、という問題が重なる。警察なのか、記者という一個の人格をもった書き手なのか、それとも大勢いる新聞読者も含めた「世間」といったものなのか。
 引用した記事が、「正確」にあるいは「客観的」に「事実」のみを伝えようとするスタイルに徹するならば、「意味不明なことを」という、書き手の判断を思わせる語句を挿入するのは余計だ。しかし、かりに私がこの記事の書き手だったとしても、「意味不明な」という語をつい添えてしまうような気がする。自分が「意味」を了解しえなかった発言を、わざわざ「意味不明」としるしづけなければ気がすまないような心理というのは、たしかにある。
 一般的にいえば、「意味不明」という言い方は非常に「失礼」なものである。すなわち、発言者本人を前にして言うことのはばかられるたぐいの言葉である。それは、「どういう意味ですか」と相手に質問する(=相手の返答を期待する)のではなく、「君と私のあいだでは言葉が通じないし対話が不可能だ。したがって君と話すつもりはない」という意思を行為遂行的に伝えてしまうからだ。
 多くの場合、「意味不明」という語は、当人のいないところで、もしくは当人の頭越しに、第三者に向かって語られる言葉である。ある発言が「意味不明」であると宣するためには、第三者の承認を要する。意味を理解できていないのが自分ひとりだけだったら、「意味不明」だなどと堂々と言うことはできないだろう。「意味不明」と声高に宣言する人は、「彼の言うことは意味不明だと君(たち)も思うでしょ」というふうに、第三者の承認を頼みにするわけだ。
 当の本人に向かって直接「あなたの言っていることは意味不明だよ」と言われることは少ない。多くの場合、それは本人のいないところで言われる。本人の面前で言われるにせよ、それはたいていの場合、次のような意味をふくんで発話される。「あなたの言うことは意味不明だそうだよ」「あなたの発言は意味不明だとみんなが言っている」。だから、当の本人には、「意味不明」という言葉は、三人称を迂回した「伝聞」として届けられる。
 そう考えると、先に引用した新聞記事は、新聞の役割とそれに規定された新聞の話法に、かえって忠実なのかもしれないとも思う。新聞が読者に伝える「情報」とやらは、いつだって見えない第三者を迂回した話法で届けられる。

*1:「かゆむ」って辞書に載ってないのね。「痛い」は「痛む」と動詞化するのに。「痛い」の場合、「痛い」(形容詞)→「痛む」(形容詞の動詞化)→「痛み」(動詞の名詞化)という品詞の転成がみられる。しかるに、「痒い」は「痒い」(形容詞)と「痒み」(動詞の形容化した形)は使われるのに、その間の「痒む」(形容詞の動詞化した形)だけが欠落している。