Bonnie Raitt / Spit Of Love

 今日は、ブルースの歌い手にしてギタリストであるボニー・レイットによるヘヴィーな一曲。
 音楽というやつは手に持ったり運んだりするものではないからして、「ヘヴィー」すなわち「重い」とは、比喩にほかならない。それは当然だけど、「ヘヴィー」って何だろうね。どのような音楽を聴くと私たちは「これはヘヴィーだ」という比喩をあてずにいられないのか。
 こういう問題を一般論として考えるのはなかなかに難しいことなので、「この曲がどうしてヘヴィーなのかしら」という問いをたてることにする。




 音楽は一方では時間芸術である。メロディやリズムの変化によって加速したり減速したり、あるいは演奏においてためたりつっこんだり。
 他方で、音楽は静的な空間を構築する。しばしば「サウンド」という符丁で語られることがらはこの「空間」に関係していると私は解釈している。で、ボニー姐さんの手によるこの曲は、何というか、その空間的な構築の強度がいちじるしく高いと言えるんじゃないかと思う。はぁ、うまく言葉にならなくってもどかしいなあ。
 具体的に記述するところから始めてみよう。
 まず耳をひくのは、ベース音。アタックは抑えぎみの、しかしながら腹に響くような唸るベース。クレジットを見ると、"moog bass" とある。Google さんで検索してみると、詳しくは分からないのだが、どうも生のベースではなくシンセらしい。Moog 博士なる方が開発したシンセのベース音ということか。とにかく、撥ねるような感じでは全然なくって、静かに地を這うような迫力をたえたベース。
 ドラムは、ハイハット、スネア、バスドラのみを使い、抑えた音でタイトにたたいている。そこに、キーボードが静かに和音をかぶせる、というのが基本となる音づくり。
 抑制されているがゆえに緊張感があって、また音の隙間がたっぷりととられている。その隙間に割ってはいるようにボニーが枯れた声でぶっきらぼうに歌をたたきつけ、またリヴァーブ・コーラス・ディレイのかかった低音のギターが鋭く切り込む。
 揺らぐギターの低音が伸び、次第に弱まっていく。ギターの余韻が消えかかると、大きく隙間の空いた空間が露出してくるという趣向。そのむき出しになった裸の空間を再活性化するかのように、ギターがガシャンと鋭く鳴る。そして、またそれは揺れながら次第に弱まっていく。空間が露出したところでまたガシャン……。
 このように、「空間」は露わにされては破られるものとして、強い存在感をもってあらわれる。先に述べた「空間的な構築の強度がいちじるしく高い」というこの曲の印象は、こういうサウンドの裏づけがあってのことだと思われる。いくぶんこじつけだけど。




 そして、この構築された「空間」が過剰な強度を持っていることが、この曲に「重さ」をもたらしているように思う。一方でコードは変化するわけだ。Em→G→Aとコードは昇っていく。けれど、「空間」は、先に述べたようにギターによる再活性化の儀式がくり返されることで、しぶとくその安定した存在感を持続しようとしている。コードは上昇すれど、「空間」はいわば不変を志向している。だから、両者は乖離する。ベースやキーボードが示すコードの転換は、しらじらしいというか、よそよそしく聞こえる。コードは変わっているのに、曲を支配する「空間」は動じない。その澱むような重々しさ。




 なんちって、屁理屈こねすぎだって、俺。われながら、こんなゴタク並べてんじゃねえよと思わないでもないんだけどね。
 変な理屈をつけないで言えば、この曲では、ボニー自身によるフィードバックを見事に駆使したスライド・ギターのソロもすばらしい。彼女はスライド・ギターの名手としても有名だけど、フィードバック奏法も、音といいタイミングといいドキドキしますわ。
 もちろん、ボーカルも。いずれこれについても書きたいと思っているのだけど、この人は歌い方もブルース・ギターみたい。特に歳をとって声がハスキーになってから、ストラトキャスターを弾くようになったようだけど、その声とストラトの枯れた音色が姉妹のようにマッチしている。ギターのクウォーター・チョーキングのような、何て言うの、完全に上げきらない、微妙に下に外した音程をたくみに入れたりなんかするのも、超カッコイイ。