同一性とフェティシズム

 閉店まぎわのスーパーマーケットで、おもしろい光景を見た。
 そういえば、この日記でスーパーマーケットに言及するのはこれで何度目かになる。それは、ひとつには私が自分の身元を特定されることをひどく警戒して書いているためではある。ネット外での固有名が特定されることを避けようとすると、書ける出来事はかなり限定される。それは大ざっぱに3つに分けられるのではないかと思う。ネット内の出来事について語るか、「国民」ないし「市民」という匿名的主体が関心を向けうる出来事(時事問題だとか、日本や政治やらがどうしたこうしたという話)を語るか、そもそもが匿名的である雑踏のなかで出くわした出来事を語るか。このうち、前二者については、かならずしも関心がないわけでもないが、どうもネット上でこれを語るのは自分の性に合わないようだ。だから必然的に、雑踏の中で見聞きしたことを書くことが多くなる。
 しかし、原因はそれだけでもないような気もする。
 私はスーパーマーケットと都市の廃墟に対して、この世の楽園とまでは思わないにせよ、フェティッシュなこだわりを持っているらしい。スーパーマーケットは、まさしく雑踏だ。商店街と異なり、そこでは共同体的なつながり、つまり関係に先立つ関係が、極小化している。そこで生じる関係は、字義どおりにも比喩的にも、純粋に商品交換のそれにほかならない。地縁や血縁や組織ではなく、貨幣のみがこれを媒介することができる。一回一回の交換・関係が、連鎖せず分断されてあらわれる。後腐れのない、ゆきずりの関係。
 都市の廃墟というイメージも、スーパーマーケットによく似ている。機能の停止した都市は、純粋に都市的である。組織化された労働の消え去った都市は、よりどころのない個人どうしのつかの間の交接以外に何も生み出さない。宵の眠りかけたオフィス街──それは完全に眠りにつくことはないものだけれど──などは、廃墟のイメージに少しだけ近づく。廃墟に人が満つれば、そこはマーケットになるだろう。




 それはともかく今日でくわした出来事。
 レジにて、私の1つ前に並んだ客が何か店員ともめている。その60代とおぼしき男は、酒を飲んでいるふうではなかったが、ろれつがまわらない。店員の女の子も、はじめのうち、男が何を要求しているのか、てんで解らず困惑しているらしかった。男は、レジ前に自分が持ってきた2本の缶入りコカコーラを指さしながら、しきりと何かを言い立てている。
 たちまち行列は長くなり、となりのレジに移る者も出てきた。2、3分たち、私の後ろのサラリーマンが舌打ちをしたり「いい加減にしろよ、バカ」とつぶやいたりし始めた頃、ようやくそのじいさんが何を言いたいのか、私にもみえてきた。
 なんと彼は、自分の買おうとするコカコーラを店員がこっそり別のものに「すり替えた」のではないかと、疑っていたのだ。レジの女の子のほかに別の店員もひとりやってきて、男性に応対していた。
「このコーラは、2本ともお客様のお持ちになったものです。間違いございません」
 男性は、まだ納得しきらない様子で、もし違ってたらどうなるか、わかってるんだろうな、というようなことを念押ししながら、商品のつめこまれたビニール袋を受け取り、ようやく去っていった。




 規格化されたマスプロダクトにほかならぬコカコーラが、別のものに「すり替わっている」のではないかという彼の不安。私はこれに虚をつかれたような思いがした。この不安を知らないわけではない。たしかに知っている。
 しかし、これをどう理解したらよいものだろうか。
 誰にも自分のこととしておぼえのあることだと思われるが、幼児は人形などの玩具やタオルにしばしば執着する。こうした執着の対象自体が、何か*1の代替物なのであろうが、古くなって汚れたタオルを大人が捨てて新しいものに取り替えようものなら、幼児はかたくなに抵抗する。
 しかし、現実に生きていくために、私たちはあらゆるものをすり替えていかなければならない。タオルや靴下、歯ブラシ、自動車といった物から、自分の身体やつき合う人間にいたるまで。ありとあらゆるものを交換する。それは容易なことだったろうか。
 子どもは、成長するにしたがって、自分の持ち物を仲間と交換することを学習しはじめる。6、7歳ごろの子どもは、何かに駆り立てられるように、しきりと自分の所有物を仲間に差し出し、仲間の所有物を受け取ろうとする行動をとるように見受けられる。
 その交換は、みずからの必要に応じて野菜と衣類を取り替えるような「物々交換」とは別種の交換であるような気がする。そこでは、「必要に応じて」の、したがって「異質なもの」どうしの「交換」ではなく、カードはカードと、人形は人形と、絵本は絵本と交換されていたのではなかっただろうか。交換、というより代替、と言ったほうがよいだろうか。
 たしか幼稚園のころ、近所に住む同年代の子どもと、ゴム製のワニのフィギアを交換したことがあったと思う。彼は、当然のように彼のワニを差し出して私のワニを要求した。あたかも、ワニは別物にすり替わっても同一のワニだとでもいうかのように。私はそのときひどく混乱したのを覚えている。一度交換が成立したあとに、私はやっぱりイヤだと言って、自分のものだったワニを無理やり彼から取り返した記憶がある。あるいは、イヤだと言って交換の解消を申し立てたのは彼の方だったかもしれない。いずれにしても、彼あるいは私は、差し出してすでに手もとにないワニと、受け取った新しいワニの「同一性」を認めなければならないという義務のような感情が一方にありながら、それを凌駕する不安に抗することができなかったのだろうという気がする。
 自分のものや、つき合う相手や、さらには自分自身が、気づかぬ間に別物にすり替わっているのではないか。そういう不安は、たしかに知らないものではない。その危機を私たちは何らかのしかたで「解決」して暮らしているはずだ。どうやって「解決」しているのか。

*1:「母親」と言ってよいものなのかどうか、私には分からない。違うような気もする。