多数が少数を監視する

自由を耐え忍ぶ

自由を耐え忍ぶ

 上の本をちょうど今読んでいて、「シノプティコン(Synopticon)」なる概念を知った。
 これは、ベンサムの「パノプティコン」構想を超えた、現在の新しい監視装置を分析する概念として提唱されているようだ。ジグムント・バウマンという社会学者が『政治の発見』(isbn:4818814342)で用いている概念らしい。こちらの本は未入手で、しかも「シノプティコン」でネットを検索しても日本語のページはほとんど出てこないので、上のテッサさんの本から又引きすると、「少数が多数を監視するのではなく、多数が少数を監視する」ものだとのこと。
 これだけだと、「シノプティコン」という概念が何をどのように分析しようとするものなのか、よく分からないのだけど、テッサさんの本の以下の記述を読むと、この概念にこめられた問題意識がある程度はイメージできるように思う。

 21世紀において、オーウェルの「ビッグブラザー」は、リアリティ・テレビ番組〔訳注・一般人の日常生活や仕事などの様子や、隔離された環境の中で行われるゲームやコンテストの一部始終をカメラで追ったテレビ番組〕に見られる、われらがならずものを監視するシステムに代替され、その番組の中ではわれらの規範に合致するものは生き残れ、望まれないものは罰せられる。「われら」視聴者が、われらの共有する「正常性」を賞賛する祭典こそがリアリティ・テレビ番組なのである。さらに、監視カメラや警察防犯ビデオが提供する映像は、われらの安全をおびやかすゴロツキやならずものの存在を可視化し、排除、断罪、罰則を与える臨場感溢れる数多くのテレビ番組の粗素材となった。こういったスペクタクルは、ニュース番組や議会の討論番組よりも世論形成に重大な影響をあたえるものであり、「自警団政治(vigilante politics)」を強化する議論の循環の輪に還元されていく。
[73頁]


 ここでとりあげられている「リアリティ・テレビ番組」を、たんなる象徴や比喩と考えるべきではないのだろう。つまり、そういった番組が、テレビの外側の「現実」に存在する監視装置を象徴的ないし比喩的に表わしているのではなく、テレビに代表されるメディアは現代の監視装置が存立するための不可欠な条件なのだと考えるべきと思われる。
 引用したところで彼女も述べているように、ゴロツキやならずものをテレビが「可視化」するのである。成人式で暴れる新成人やら、日の出暴走のアンチャンたちやら、フィギア萌え族やら、ニートやら、不良外国人やら……。テレビが演出するおなじみの儀式である。
 ところで最近、市の防災無線で以下のようなメッセージが流れるようになった。

 全国各地で不審者による事件が多発しております。子どもたちの安全を見守っていただけるよう、お願いします。


 要するに「不審者を見張れ」と言いたいのだろうが、どうやって見張れちゅうねんな。どうやって「不審者」を見分けるんでがすか。子どもに話しかけたり、ことによったら視線を向けたりする者が「不審者」なんだろうか。
 私にはこういう無線放送自体がすごく気持ち悪いのだけど、多くの市民の方々は違和感なく聞き流しているのだろうと思う。メディアが可視化する「不審者」像、あるいは「街には不審者がひそんでいる」というイメージに対し、意識的な括弧入れをしない限り、やはりこういった放送を聞き流してしまうようになるのだろうと思う。
「こういったスペクタクルは、ニュース番組や議会の討論番組よりも世論形成に重大な影響をあたえるものであり、『自警団政治(vigilante politics)』を強化する議論の循環の輪に還元されていく」。
 そう、テレビの提供するスペクタクルが自警団政治を強化する。「われら」こそが監視者の側に立つのである。
 たしかに、先の防災無線はそれだけを取り出せば、滑稽であり間抜けである。しかし、恐ろしいのは、この放送が、(何もないところに)「不審者」をみいだし可視化しようとする気違いじみた強迫観念とセットになって機能するときである。そういう強迫観念は、もうおなじみのものだ。「不審者」なるものの実体を「われら」は知らないのであるから、「われら」の視線はつねに何らかのカテゴリー(「外国人」といった)に向けられる。そういったカテゴリーに向かって、真剣な形相で噴き上がっている「われら」をよく見かける。「不審者」をより明瞭に可視化しようとヒステリックにふるまう「われら」をよく見かける。
 今はまだ、そういう「われら」を横目に「必死だなw」とひそかに嘲笑したり、「まあ、こういう連中は多数ではないからね」と受け流したりすることも可能だ。しかし、「われら」がメディア*1と結託することで、より確固たる規範性を獲得したとき、私は「われら」*2から距離をとり、かつ「われら」に対抗することができるだろうか。
 「われら市民」が監視されるということだけでなく、「われら市民」が監視する主体になろうとしていることこそ、ヤバイのである。

*1:当然、ネットを含む。

*2:ここでも「かれら」ではなく「われら」と言うべきであるように思われる。