プレイバック

 人間の体の問題なのか、あるいは心の問題なのか分かりませんけれど、その人間の体や心には、うまくできているもんだなあと感心することがある一方で、あんまりうまくできていないのね、と残念に思うこともある。
 うまくできていないのね、神さんはもう少しうまく作ってくれればよかったのに、と私がしばしば思うのは、なぜか人間は嫌な体験を頭の中でくり返しくり返し反芻する機能を持っているということである。嫌なことほどよく思い出す。
 他人から結構キツイことを言われたとする。その場合、本人に直接言い返せればよいのだけど、社会的な立場とかそのときの状況によっては、言い返せないことも多々あるんである。たとえばの話、「死ね死ね死ね死ね」と言われたとする。状況が許せば、うるせえこの野郎と言い返し、ことによってはそいつの頭ポカンひっぱたくなどして反撃したいのであるが、そうもゆかぬこともある。
 こんなことがあると、後になって頭のなかで「死ね死ね死ね死ね」がしつこく鳴り続けるのである。もっと楽しくハッピーな体験もきっといろいろあるはずなのだ。だから、そっちを記憶から掘り起こしてリプレイしてくれたってよさそうなものである。しかし、頭ん中では「死ね死ね死ね死ね」の連呼。嫌な体験ほど執拗に再生しやがるのである。勘弁して欲しいものである。
 なんでこんなふうにできてるんでありましょうかね、人間の心身は。
 ひとつ考えられるのは、危機回避のための「警報」としての機能。嫌な経験というのは、個体にとっての危険な状況と結びついていることが多い。であるからして、その危険な状態をプレイバックして意識に学習させることが、今後直面しうる似たような危機を回避するために有効なのだということが考えられる。
 しかし、ものには程度というものがありましょうよ。必要の限度を越えて「死ね死ね死ね死ね」などとささやかれたら、かえって気が滅入ってしまうのである。やめて欲しいものである。
 この他者の声として響く「死ね死ね死ね死ね」を自分の声に転換してしまえば、あるいは気が楽になるかもしれぬ。つまり、自分に向けられた攻撃性を他者への攻撃性へと転化するのである。
 実際、こうして気分のすぐれないとき、私は攻撃的になるようであるが、それで気が晴れるかというと気は晴れぬ。考えてみれば、私たちはしばしばその「八ツ当たり」ということをするのであるが、それで気が晴れることがあるかと言えば、やはりないのではないか。これも考えようによっては、人間の体や心のうまくできていない、と思うことのひとつではある。
 ムシャクシャしてたので猫をいじめてやったら、あはは、ハッピーになったぜ、とでもなるならば、精神衛生上とてもよいことだと思う。鼻にワサビ塗ったら踊ったよ、あはは、気分すっきり、というふうになればよいのだけど。ところが、そんなことをして気が晴れることなど、たぶんないのである。にもかかわらず、猫をいじめたくなるのである。ごめんね。謝ってもしょうがないんだけどさ。
 だが、大げさな話をすれば、そういう猫をいじめるようなことが、いじめる側にとっても気持ちよいことではない、そんなふうに人間の体なり心なり、あるいは文化なりが設計されているということに、倫理の可能性があるのではないかと愚考したりもするのである。気持ちよくないことは、倫理的にも善くない。気持ちよさと倫理的な善とは、究極的に一致するんではないだろうか。などと言ったら、楽観的すぎるのかもしれないけど。
 反対に、その究極的なところでの一致に楽観的になれない場合、自由や快楽とは反する、強制力をもったものとしての道徳を個々人の外部から持って来なければならなくなる。最近の若者がなっとらんのは、戦後教育が腐っておるからだ、道徳教育を復活して教化せねばならん、と。そういうイデオロギーが存立するためにこそ、たとえば猫をいじめたり殺したりすることに快楽をおぼえるとかゆう「異常者」像が必要なのかもしれん。
 そんなとりとめのないことを考えてシカメッ面していると、猫がぴょこんと膝の上に乗って居眠りを始めたりするものだったけれど、飼っていた猫は数年前に行方不明になったきり帰ってこない。空虚。猫と暮らしたい。