「音楽に癒やされる」ということ

 音楽を聴くという体験は、主観的な行為である。
 といっても、ここで言いたいのは、「同じ音楽を聴いても人それぞれの感じ方がある」といったことではない。つまり、感受性やそれをはぐくむ環境や個人史の違いや多様性といったことを言いたいのではない。
 昨日書いたこととも関わるし、それは、この日記で音楽について愚にもつかぬことを書きながら何とか言葉にしようとしていることの1つでもあるのだけど、聴く者は音楽に向かって働きかけるのだ。音への主観的な働きかけなしに音楽を聴くという体験はありえないのだと思う。
 たとえば、単純な話として、和音にはテンション・コードと呼ばれているものがある。代表的なものとして、セブンス・コードがあげられる。ド・ミ・ソの和音にシのフラットを足してやれば、Cセブンというコードになる。
 要は、ちょっと不自然で不安定な和音である。しかし、こういったテンション・コードは特別なものでは全然ないわけで、ポピュラー音楽においても頻繁に使われている。かならずしも、それは聴く者に「違和感」をおぼえさすようなものでないのである。
 なぜ、この「不自然」なるものが、「違和感」を与えないのか。それは、それ自体では「不自然」な音の配列に対し、聴く者は「自然」なものへと再構成しようと働きかけるからである。
 和音だけでなく、メロディにせよリズムにせよ曲構成にせよ、あるいは普通「音楽」とくくられない波の音や雨音・風の音に「美」をみいだす場合にせよ、それ自体として「自然」であるような対象などないのである。「自然」とは、あらかじめ存在するものではなく、認識の働きによる構成体である。認識する働きの後に「自然」は「成る」のであって、認識に先立ってそれが「ある」のではない。どんなに「単純」な(にみえる)音楽であっても、聴き手の構成の志向、働きかけ抜きには「鑑賞」の対象になどならぬはずであり、いかなる音楽であっても、その程度には「複雑」なのである。
 そして、ある種の音楽狂いの熱狂は、そうした聴き手の側の構成への働きかけがついぞ果たされないということ、「自然さ」を獲得することに失敗するというところにあるのではないか、という気がする。さよう、それは倒錯している。後味のまずさ、居心地の悪さ、不快といったものに、美しさなり、おごそかさなり、こころよさなりをみいだす。
 それはともかくとして、人が音楽を聴くとき、そこにかならず音楽へ向かっての認識的な働きかけがあるはずである。
 しかし、「音楽に癒やされる」とは、どういうことなのだろうか。
 いや、ま、そりゃ、音楽を聴いて「癒やされる」ということを、経験として知らないわけではないのだ。ただ、ね、「分かりきっている」と思ってつい見すごしてしまいがちなことを、あえて「わしゃ知らん!」と愚直に居直ってみせるのが、古今東西の哲人の知的ふるまいとしてよく見られるように思われるので、わたくしもそれに倣ってみようかしら、というのである。
 「音楽に癒やされる」とは、言い換えれば「音楽が人を癒やす」ということになるが、そんなことありうるだろうか。これでは、まるで、音楽の方から人・身体の方にやってきて、傷ついた身体や心を修復するかのようだ。先ほど述べたように、これは逆に理解すべきだと思うのである。われわれは音楽を受け身に「感受」するのではない。「感受性」が問題なのではない。私は音楽を主観的に構成するのである。
 そもそも、「癒やされる」という言い方はひどく奇妙ではないだろうか。


「癒やされる」 = 他動詞「癒やす」 + 受け身の助動詞「れる」


 まず、「癒やす」という他動詞を疑ってみることができる。
「SがOを癒やす」とはどういうことか。「医者が患者を癒やす」? 患者が「癒える」ことを医者は手伝うことができるかもしれない。しかし、その場合、患者が「癒える」(自動詞)のである。もっとも、神とか仏とかの聖なる存在が人を「癒やす」ことはあるかもしれぬが、それは「奇跡」である。「癒やす」などということは並大抵のことではないのである。
 そして、「(私が)癒える」(自動詞)ではなく、「(私が)癒やされる」と言われること。自動詞一単語ですむところを、他動詞に受け身の助動詞をくっつけるという、きわめて複雑な操作によって出来上がった語があえて選ばれ使われることの意味は、何なのだろうか。何が君をして「癒やされる」と言わしめるのか。なぜ「この曲聴いて癒えるわ」とは言わないのか。
 そう。「癒える」が正しいのではないだろうか。その場合、「傷ついている」のは、私の身体や心なのか。それとも、音楽なのか。それは判然としない。
 しかし、いずれにしても、私が、そうだよ私が、傷ついた身体を、あるいは壊れた音楽を回復しようとしているのんじゃないか。
 たとえば、アイフルのチワワを見て「癒やされる」と言う、その言い方は正しいのか。クーちゃんは、お犬様なのか。俺は何を言いたいのか。明日の朝は早いのだけど起きられるのか。「癒やされる」とつい口にしてしまうとき、私は何かだまされていないか。「癒やされる」とは、自己疎外、つまり働きかけるという私自身のものにほかならぬ力を、像として私の外側に投射してしまうことではないのか。