意識しつつ意識を消す

 jiangmin-alt さんの以下2エントリを読んで。
プログラムされた自己否定行動
[読書] misconception and fears


 jiangmin さんが想定している場面と、あるいはズレた話をしてしまうかもしれないが、「ああ、そっち行くとヤバイのにな、でもなんか俺そっちに向かってるよ、分かってんだけどな、あ、ほらやっぱこけた、イテテ」というのは、経験としてかなり思いあたるふしがある。こういう「自己否定行動」を防止するのにあたって、失敗のパターンやリスクを「意識化」することが必ずしも役に立たないというのも、経験的事実としてよく分かる。
 こうした「自己否定行動」をどう解釈するか。興味深い問題だと思う。
 ひとつ考えられるのは、リンク先で引用されているクリシンさんの文章にもあるように、「無意識」というものを仮設して、遡行的に「原因」へとアプローチする方法。生活史をさかのぼるようにして、「精神的外傷」なり何なりを過去に見いだすというやり方。
 まあ、それもアリかなあとも思うのだけど、私は「無意識」ではなく、反対に「意識」の方を考えることで、jiangmin さん言うところの「リアルタイムに認識していても、止らない」失敗行動を説明できるんじゃないかな、という気がする。
 たとえば、言ってはいけないことをつい口走ってしまうということがある。また、私は調子の悪いときに、どもることがある。そういうときの自分というのは、妙な自己観察が同時になされているもので、「あ、ここで言わんでいいことを口走るな、俺」とか「今、どもりそうだ」といった意識が同時に生起していることが多い。
 たしかに、そういう「意識」は、「無意識」のようなところから湧き上がってくるのだという解釈も可能かもしれない。しかし、私の感覚としては、どうもそれはハウリングに似たメカニズムで起こっているような気がするのである。もっとも、これはたんに「気がする」ということで、検証できないのだけど。
 ハウリングというのは、要するに、スピーカーが出力した音をマイクが拾ってしまい、そうして「出力→入力→出力……」がループしてしまう現象であるわけだけど、それと似たようなことは「意識上」でも起こるように思う。「余計なことを言ってしまった」「どもってしまった」という意識から、さらに余計なことを言う、あるいはさらにどもる、というドツボにはまるパターンはけっこうあるかもしれない。
 ところで、「出力/入力」をキーワードに、発話の2つの類型を考えることができるように思う。
 ひとつは、自分の口から声を発すること(出力)とその発した声を耳で受け取ること(入力)とのあいだの差異を意識しない発話。定型的なあいさつ、あるいは「とりとめのない会話」は、それがうまくいっている限りにおいては、自分がしゃべっているということがほとんど意識されず、入力・出力の差異が意識上にのぼることはない。
 もうひとつの類型は、出力に対して入力が先行したり(これからしゃべろうとする声を脳内で先取りしてモニタリングしてしまう)、反対に遅れたり(自分のしゃべり声をそれが消えた後にリプレイしてしまう)といったズレの意識のもとで行なわれる発話。定型的な会話がうまくいかずに、こういう状態におちいることがある。また、「よく考えながら話そう」とか「あらかじめ考えたことを話そう」とすれば、多かれ少なかれ、自分の声が発話に先行して頭の中で鳴ったり、反対に遅延して聞こえたりすることがあるように思う。
 そして、身も蓋もないことを言うようだが、こうしたズレは、「意識的に」しゃべったり書いたりする以上、完全に避けることはできないのではないだろうか。ただし、こういう意識の暴走をある程度抑えることは、可能かもしれない。たとえば、私は人前でまとまった話をしなきゃなんないとき、事前に準備はしながらも、しゃべっている最中はそれを「忘れる」ようにつとめたりする。一度意識にのっけたら、発話の段ではそれを消してしまうということ。計画通りに話すことなんてできやしないものだから、しゃべる前からしゃべる内容が意識に浮上していると、たえず両者のズレを自覚してしまうことになる。反対に、まったく無計画にやろうとすると、話す内容を継起的に意識上に作り上げる作業をしなければならないものだから、これもまた意識が発話に先行したり、逆に発話した内容を意識によっておそるおそる事後確認したり、といったバランスの崩れが生じる。結果、ハウリング
 意識しつつ意識を消す、という2つの力のバランスが大事なのかなあ。禅問答みたいだけど。
 ところで、どこで読んだか聞いたかして、出典は定かでないのだけど、おもしろい話がある。タイプライターの悪癖矯正法についての話だ。
 あるタイピストが、定冠詞の "the" を "teh" と打ってしまう癖を直せないでいた。自分の癖を自覚しているんだけど、やっぱり "teh" とやってしまう。で、"the the the the……" と正しいスペルを何十回何百回と反復して練習したのだけど、やっぱりミスする。反対に、自分のいつもの癖の間違ったスペル "teh" の方を反復練習してみたら、以前の悩みが嘘のように矯正に成功した、というお話。
 これが本当の話として、くむべき教訓は何だろうか、と考えてみる。
 なるほど、「自分の癖を意識化することで、"the" を打つ前に未然にミスを回避できるようになったのだ」という説明がひとつ考えられるだろうとは思う。しかし、彼女(彼?)は、矯正に成功する前にも自分の癖を充分に意識はしていたと考えられるから、「意識化」が矯正につながったと考えるのは、説得力に欠ける面もある。
 むしろ、彼女は、思う存分 "teh" と打ち込むこと(意識化)によって、逆説的にそれに対する強迫観念を意識から消し去ったのではないかと考えた方が、説明としては理にかなっているように思う。つまり、「"the" と打たなければならない」という意識は、"the" という正しいスペルの意識で打ち消すことはできないのであって、"teh" という誤ったスペルへの意識を強化することによってのみ相殺できる、と。ある意識はそれ自体を消去できないのであって、逆方向の意識をぶつけることによって抑えることができるだけってことかなあ。
 jiangmin さんのエントリをダシに、勝手なことを書き散らしてみましたが、まとまりがつきません。おやすみなさい。