パノプティ先生

 学生の頃、私たちがひそかに「パノプティコン」というあだ名で呼んでいた先生がいた。
 その先生の講義で、申し訳ないことに私はよく居眠りをしていた。というか、私はあらゆる講義で居眠りしたものだった。昼間はつねに無性に眠かったのである。そのパノプティ先生の講義も例外ではなかった。
 そうは言っても、講義時間いっぱい眠っているというのは稀であって、たいていは眠ったり目を覚ましたりして時間を過ごしたのであった。
 はじめは「偶然」だと思った。しかし、何度も続くうちにただの「偶然」とは思えなくなったのである。
 それはこういうことである。先生の語り口はやわらかくて、夜更かしをつねとしていた私は毎回眠りを誘われるのであった。ゆったりとした波にうつらうつら舟を漕いでいると、ときどき大きめの波にガクンと身を揺すられて目を覚ますことがある。ところが、そんなとき、いつも先生と目が合うのである。例外なくいつも、である。ふと目を覚ますと必ず先生は私の方を見て話している。そのたびに私は驚いていっぺんに眠気が吹き飛ぶのだけれど、先生は何ごともなかったように視線を移して講義を続ける。そうしているうちに、また気づくと居眠りをしており、目を覚ました瞬間、先生と目が合う。
 そんなことが、3度か4度続き、あとでこの話を友人にしたことがあった。すると友人は膝を打って、そうなんだよ俺も目を覚ますといつもこっち見てるんだよ、と言うのである。同様の証言がほかの何人かからも得られた。
 これには何かトリックがあるのではないか。興味をひかれた私は次の授業から注意深く先生の視線を観察した。
 最初に私が立てた仮説はこういうものであった。すなわち、実は先生、学生の居眠りをたいへん苦々しく思っており、そんな学生の方ばかり見て話をしているのではないか、というものである。起きるまで視線を送り続けているのだとすると、目覚めたときに毎度目が合うのも合点がゆく。
 しかし、この仮説は正しくなかった。私が目を見開いて先生を観察しているあいだも、居眠りする不届きな学生はいたが、先生が特別その学生を注視しているということはなかったのである。視線を固定することなく、淡々と講義されていた。しかし、私が観察に疲れ、はからずもうとうとしてしまい、気がづくと、やはり先生はこちらを見ているのである。
 そうこうしているうちに気づいたのは、居眠りを「見られた。しまった!」と思うとき、先生が顔の正面をこっちに向けているのではない、ということである。いわば、目を覚ました瞬間を、先生は横目で捕捉しているのである。そういえば、先生は学生に向かって話をするとき、つねに横目であった。
 先生は教壇に立っているのであるから、普通であれば、腰掛けた学生を見下ろすかっこうになるはずである。たしかに他の先生の場合、下向き加減にまっすぐ学生たちを見下ろすことになる。ところが、パノプティ先生は心もちアゴを上げて、目線だけ下に向けているのであった。それも、まっすぐ下に目線を向けるのではなく、斜め下を見下ろしているのである。
 この斜め下を見やる横目というものは、見られる側からすると、逃げ場がないように感じられるのである。
 上からまっすぐ見下ろされた場合であれば、顔の向いてる方面が視界に入っているということを、聴衆は理解できる。つまり、顔がこっちをまっすぐ向いていない限り、自分が死角にいるものと見なし、安心できるわけである。
 ところが、斜め下を見下ろす横目を前に、われわれは逃げることができないのである。上方向から見られている以上、絶対的な死角がないことをわれわれは理解している。これに加えて、横目というのは、見られる側にとって、相手がどこを見ているか定かではないのである。自分が見られているのか、いないのか、判断できぬのである。この、「見られていない」という確証を得られぬという、そのことこそが、まさにパノプティコン。結果、見られている可能性を、たえず意識から排除できなくなるのである。
 しかも、先生の視線は、微妙にであるが、つねに動いている。ふと目を覚ました瞬間、いつも最初に私が目撃するのは、先生のこの微妙な目の動きである。私はそれを「あ、先生がいま視線を外した」と認識してしまっていたのである。「いま目を逸らしたということは、それまで先生がこっちを見ていたからだ」と、そういう認識を持ってしまうのである。
 これは認識の錯誤、認識の転倒である。
「先生は今まで私を見ていたから、(目が合った瞬間に)私から目を逸らした」のではない。
 先生の目線の動きを見た私が、「先生は目を逸らした」と解釈してしまっていたのである。はじめから「目が合った」ことなどなかったのである。