Hey, Cola!

 帰宅して飯食って、コエェとなり、一度ふとんに倒れ込んだのだが、小一時間ほどまどろんだのち目を覚ました。
 コカコーラが飲みたくなったのである。コエェなあという夜、私は無性にコークが飲みたくなる。コークが欲しくなるとき、私の脳内に想起されるのは、あのべたついたくそ甘ったるさでもなく、また薬くさい苦みでもなく、ほのかなすっぱさである。そのすっぱさを求めて、深夜のコンビニに出かけた。
 そうやって求めていた味覚は実際のところ脳内にしかないのであって、夜中に買って飲むコークはいつだって幻滅をもたらす。口の中できわだつのは、べたつきと苦みであって、すっぱさではない。コークが実際にうまかったことなどない。でも、それは飲む前から、買いに行く前から、分かっていることなのである。
 ところで、コークを飲みながら思いだしたことがある。
 中学時代、卓球部に所属していたのだが、大会に出かけて2日か3日まるごと拘束されても、一年生のうちは試合に出るわけでもない。審判などの雑務も任せられない。選手の応援をする以外は、何もやるべきことがない。よその試合を見ているのもじきに飽きる。もう本当にやるべきことがないので、トランプなどを持ち込む者が出てくるほどだが、当然そういうのは厳しく叱咤される。へたすると上級生や顧問の鉄拳制裁が待っている。だから、トランプもできない。マンガも読めない。
 で、手ぶらで何か楽しいことができないかと、我々は創意工夫したものである。しりとりを半日は続けた。そんなに続けられるほど「る」で始まる語などあるわけがない。今にしてそう思うのだが、途中からは「る」攻め禁止などというルールを設けて延々と続けていたように思う。そうまでして何時間もしりとりを終らせないことの意味は何か。終ってしまったら、もう何もやることがないのである。だから終らせてはいけないのである。
 もちろん、しりとりのほかにも、ものを使わない時間つぶしの手段がないわけではなかった。たとえば、あれ何ていうんだろ。何人かで輪になって両こぶし突き出し、順番に「3!」とか「5!」とか掛け声だして、いっせいに親指を上げ下げするゲーム。全員の上げている親指の数の合計と掛け声の数字が合ったら、その数字を言った者が抜けられる。最後まで抜けられなかった者が負け。単純ながら、罰ゲームがあったりして、なかなかエキサイティングなのだが、「遊んでいる」のが一目瞭然なので、やはり叱られる。これも禁止される。
 となると、上級生の目を盗んで、しりとりをやるぐらいしかないのだ。
「ボウル」
「それさっき言ったべ」
「さっきのはボール。こんどのはボウル」
「ル? またルか。ル・ル・ル・ル……ルクセンブルク
「なに、ルクセンブルクって?」
「俺も知らないけど、なんかあるんだって」
「勝手に言葉作ってんだろ?」
「いや、たしか作曲家にそういうヤツいるんだって」
 再現はできないが、こんなノリだったと思う。それで、横から「そういえば、音楽室でそういう名前の肖像見たなあ」などとイイカゲンなことを言う者が出てくると、「ルクセンブルク」は承認されてゲームは続く、と。
 こうした、生産性も問われず、無目的で、「連想」(association)だけが言葉と言葉をつなぎ、また人と人をつなぐ途方もなく暇な時間。これはかけがえのないものであったのだと今になって思う。「友情」などとは言うまい。しかし、アソシエーションとはこういうものではなかろうか。
 なーんて感傷的になっちまったが、そうそう、コカコーラの話であった。
 そんな暇をもてあました時間に、何でそんなことを始めたのか理解できないのだが、ある者がコークの瓶を振ってはフタを開け(プシュー)、また振ってはフタを開け(プシュー)ということをひとり始めた。あれ? ファンタ・グレープだったかな。記憶があいまい。
 とにかく、そうして卑猥な動作をくり返してすっかり炭酸が抜けたコーラ(あるいはファンタ・グレープ)は、元の色とすっかり変わってしまい、ひどくびっくりした、という話です。コーラが紫になったのだったか、ファンタが黒くなったんだったか。いずれにせよ、その劇的な変色に、私どもは驚喜したのである。
 それをまた試してみたいなあと今思ったんだけど、さっき買ったコーラはもう空になっている。今度いつか振ってみようかしらと思うが、たぶん一生やることはないだろう。もし、昔のように変色するのをいま目にしたとしても、もはや感動できないだろう。それはやる前から分かっていることなのだ。