鳥肌実


●YouTube - Minoru Torihada show


●YouTube - Torihada Minoru speech of a profile


 YouTube より鳥肌実の動画2つ。見くらべてみると、おもしろい。
 演目は同じである。ところが、1つめのリンクは笑うのが難しいのに対し、2つめの方は安心して笑える。この違いは、ある種の「笑い」の性質を考えるのに示唆的な気がする。
 一方にはなかなか笑えず、他方には笑える、という差が生じる要因は明白だ。前者は観客のいないスタジオでもっぱらカメラに向かって演じられている。後者はライブハウスで撮影されたものらしく、観客の反応も込みの映像になっていることである。どちらにおいてより鳥肌の芸が「いきている」のかは速断できないにせよ、「観客の反応」の有無によって、同じ芸に「笑いやすい/笑いにくい」という違いが出てくるのは確かだ。
 その両者を分けているのは、「観客の反応」の中でも、なかんずく観客の「笑い声」である。むろん、「ウケた/ウケなかった」といった観客の生きた反応が演者にフィードバックされることで、絶妙の間が生じているというともあろう。しかし、観客の「笑い声」が重要な影響を与えるのは、演者に対してというより、むしろライブハウスや画面のこちら側で観ている同じ「観客」に対してである。観客は隣の観客が笑っているのを横目で見て、自分も安心して笑うわけである。
 まあ、こんなことは改めて論じるまでもないことであって、とっくの昔にテレビジョンのショウはこれを演出の技法として活用している。芸の映像とともに、スタジオのタレントであったり裏方であったり笑い屋であったりの「笑い声」を込みで流すことで、ブラウン管の前の観客にも安心して笑ってもらおうというわけだ。
 そう考えると、過激な路上パフォーマンスで知られる鳥肌実の芸も、きわめてテレビ的な一面を持っているのだと気づかされる。
 彼が客を笑わせるときに突いてくるのは、「アヤシイ者」に対して私たちが持つ排除の欲望である。彼は、「創価学会」「日本共産党」「右翼」「アムウェイ」といった、「アヤシイらしい」とみなされている対象をみずからの話芸にちりばめる。彼の芸に腹を抱える「私たち」は、「創価学会」「日本共産党」について、よくは知らない(「よく知っている」人は、「学会」や「共産党」に対して好悪いずれの感情を抱くにせよ、彼の芸をあまり笑えないだろう)。
 鳥肌実がちょっと変わってるなと私が思うのは、そういった「創価学会」等に対して「私たち」のもつステレオタイプなイメージを引き出すことで笑いをとる(風刺)というより、たんに「創価学会」や「池田大作」といった記号を出すだけで客を笑わせているようにみえる点である。いわば、「私たち」が漠然と「アヤシイ」と思っている者たち(その対象は何であってもかまわないのだろう)を彼はほとんど純粋に「名前」「記号」としてのみ引っぱってくるのであって、その「イメージ」を描くことは重視していないようにみえる。
 彼はそういった明確な像をもたない「私たち」の排除の欲望を、道化者としてみずから引き受けるような身ぶりを見せ、あるいはその欲望を「学会」や「共産党」といった記号へと散らすことで、奇怪な空間を演出しているように思う。そこで「私たち」は、となりの「私たち」が笑うのを横目で見ることによって、よく分からない対象を笑うべき対象へと転化し、安心して笑うのである。というか、順序を正しく記述すれば、他人を模倣して笑い、つぎに安心し、しかる後に「私たち」になるのである。
 ところが、私がPCのモニタの前で、画面に映ったライブハウスの観客とともに爆笑しながらも、奇妙な感をいだいたのは、私は共産党創価学会についてほとんど何も知らないという事実を思い出してのことだ。よく知らないものを私は笑っている。そういった「批評」を鳥肌実の芸そのものが「不条理」という形で内在させているように私には思われる。イメージなき記号という不条理。
 そしてもうひとつ「批評的」だと私が勝手に思ったのは、彼の芸にあっては、「私たち」の排除の欲望は、つぎつぎにくり出される差別的な記号に撹乱されて行き先を失うということ。排除の対象はけっして明確な像を結ばない。「笑える」のだけど、それは不安を昇華しきるような笑いにはならない。ここで構成される「私たち」もまた、ずらされ続ける。