危機の徴候?

 ごくごく個人的なことで、公共的な問題とはとうてい言えないのであるが、ひょっとして衝撃的な事実を発見してしまったかもしれぬ。
 「衝撃的」にもかかわらず「ひょっとしてかもしれぬ」などとはっきりしない書き方をせざるをえないのは、徴候というものは必ずしも判然としたかたちで表れると限らないからである。事態ははじめ緩慢に悪化へと向かうのであって、微々たる悪化の蓄積がいつしか深刻な状況にいたってはじめて、われわれは驚き、嘆き、絶望するのである。
 そうした取り返しのつかない事態にいたる前に、日々点検・検査を怠らず、徴候に目を光らせ、問題の早期発見にこれつとめましょう、というのが近代人の考え方である。毎年受けようガン検診。服装の乱れは心の乱れ、早期に非行の芽を摘みましょう。こうして、科学者は地球環境に関する詳細なデータをとり、役人は何千年かのちの日本民族滅亡を避けんと少子化と出生に関する調査を続行するのである。
 死! 人生の破滅! 人類・民族の滅亡! これらはいずれも何とかして避けたいものである。微細なものとしてはじめは表れる徴候を見逃さぬためにも、詳細かつ長期にわたる調査、データの蓄積が必要なのだ。
 私のいま直面している(かもしれない)危機は、「滅亡」「絶滅」に関すると言ってもよいと思うのだけれど、私は調査・計測を怠ってきたので、これまでの経過についてのデータをもたず、したがって現状を客観的に評価する材料がないのである。はたして私は危機に面しているのだろうか。
 しかも、これは微妙な問題で、日頃の会話で表立って話題にあがることがないのである。それは本人のいないところで隠微に語られる性質の問題であり、だからかりに危険な徴候がみられても、他人から指摘してもらうことはあまり期待できない。自分の方から聞くのもはばかられる。本当の友人なら忌憚なく忠告してくれるものだろうけど、さりげなく、または直截に指摘してくれた友は今のところいない。危機は私の思いすごしか。それとも、私には真の友人がいないのか。
 頂上付近から衰微が始まることは、よく他人の事例において観察されることであるが、私自身の問題としては当面これはない。そう安心しきっていた。現状においても、まあ、頂上は大丈夫。だと思う。そもそも私は人より豊富な資源を有している方であり、だから安心しきっていたのだが、山頂付近は現状においても健康だと思う。思いたい。
 背後や側面から症状が進行するケースは、見たことがない。戦後日本の精神的被占領状況を憂い、自主自立を説いた国士たる首相時代の中曽根さん(そのわりには「おれ、お前の不沈空母」かなんか言って露骨に占領軍に媚びていたのは理解できないが)も、「すだれ」とあだ名されながらも、側面においては最後まで後退せずに国土を死守したのであった。もう敗れたみたいだけど、まあ歳が歳だし、よくがんばったよね。
 背後から後退する(言葉としておかしいかな。「前進」というべきか)ケースはお目にかかりませんな。ぜひ見てみたいのだが。
 そういうわけで、頂上・側面・背後は私の場合、しばらく心配ないと言ってよいと思われるのであるが、問題は正面である。心もち明るいところが広くなったような気がするのである。しかし、定規で測るなどして記録するということを不精な私はしてこなかったので、客観的な状況はつかめない。不安である。しかも、気になることに、よく観察してみると左右が非対称ではないか。左のきわが右のきわより上がっているのはなぜだろうか。昔からこうだっただろうか。
 かくして日ごろからの観察と記録の重要性を三十路すぎになって痛感している次第である。心を改め、今後いざ励まん。