尻尾のない犬

 最初は、何か「個別的な事情」というやつがあるんだろうと思った。事故で切ったにせよ、生まれつきそうだったにせよ、こいつはたまたま尻尾のない犬なのね、と。
 その犬は紐につながれ女性に連れられていたのだが、その後ろから夫とおぼしき男性が似たような犬をひっぱって歩いてきた。いずれも薄茶色のふさふさした長毛の犬。胴は太くて足短め。声かん高い。で、この2匹目の犬も尻尾がない。お尻が無防備。
 どういうことだよ、オイ。そういう種なのか。飼い主に考えがあってちょん切ったのか。それとも、たまたま?
 こういうことで悩むのは、どうも落ち着かない。悩む以上、落ち着いていられるわけはないのだが、特にこうした悩みは落ち着かない。
 尻尾がないからといって私も、そしてたぶん犬も困ることはないのだが、「たいていの犬には尻尾がある」という事実から、私は尻尾のないことを「欠落」「異常」と認識する。そうやって「犬」についての既成のイメージを保守するのである。その結果、尻尾のある犬はただの「犬」で、尻尾のない犬は「尻尾のない犬」である。
 そして、そういう「例外」として脇によけた特徴が、2匹の犬に共通点として見いだされたとき、私はこれをグループ化しなければならんと思う。偶発性・固有性といったものに向き合えぬ、あさましき精神である。すでに、この「尻尾のない犬」に種、ないし類としての一般名詞が与えられているならば、私は「ああ、そういうものなのね」と愚かにも安心するのだ。ところが、その名を私は知らないし、名があるかどうかすら知らない。
 私自身が勝手に名づけることも不可能ではないが、固有名ならともかく、一般名詞を個人が勝手に決めるのは変である。つまり、固有名であれば「バイオモドキ神」といった自分ひとりが使用する名辞を与えるのも変ではないが、一般名詞は本質的に公共的なものであるように思われるのである。
 固有名詞の効用のひとつは、これによって対象への「呼びかけ」が可能になることがあるということにある。だから、固有名の場合、他人と共有されていることは、かならずしも要件にはならない。自分だけの神にむかって「おお、バイオモドキ神よ」と呼びかけることができるのである。これに対し、一般名詞とは、「呼びかけ」という機能を付されていない名詞をいうのであって、基本的にはその言葉を他人と共有してはじめて意味をもつのである。
 そういうわけで、くだんの2匹の犬をグループ化したいという、あさましい欲望をいだきながらも、名辞を与えられないのでそれもかなわぬ、という板挟みの状況に置かれてしまっているわけである。
 だから何だと訊かれると、何も言えないのだけど。